今週の説教要旨(2019. 9. 22)

9月22日花

説教題「 新しい喜び 」
ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節
 今日の、ガラテヤの信徒への手紙6章14節について思いを巡らしてみた。もとのギリシャ語を訳そうとして訳しきれないのが歯がゆいのだが、こういうことだ。「私にとってはしかし、断じて私たちの主イエス・キリストの十字架の他に誇るものがあってはならない。つまり、そのイエス・キリストの十字架によって、世界は私に対して十字架につけられてしまっている。わたしもまた、世界に対してはりつけにされてしまっているのだ。」続けて15節で、大事なのはそこで視界に立ち上がり広がってくる新しい創造の世界で生きることだ、とつながる。
読みながら、目に開けてくる光景は、アニメチックになってしまうのだが、世界と私が対峙しており、お互いに絆創膏でバッテンがはりつけられている。いやお互いに、死、終了、禁止、ダメ、無のしるしである十字架マークがつけられている。すなわちすべてがキリストの十字架によってはりつけにされて死んでいる終わっている、世界も私も。意味なく、無きものとされている。しかし、同時に向こう側の光に向かって立っている。なにか輝く大地の上に立たされており、希望の光の中、ちょうど夜が明けるような美しい朝陽に向かって、その照り輝きの中に立たされ放り込まれており、イエス・キリストの復活の命の中に生かされている。そしてバカボンのパパはつぶやく。「これでいいのだ」。そんな光景だ。
2:19に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられています」と同様の句がある。いかにも、パウロは神に生きるために、律法に則って教会の人々を迫害しいわばキリストを、神を殺していた。これはすべての人間の姿だ。その彼も十字架でキリストと共にはりつけにされている。そしてキリストの十字架の死によって生き返った。失われていたものが見つかった喜びのために天の国では賛美の声が響き渡っている。