今週の説教要旨(2020. 1. 12)

1月12日花

説教題「 神の小羊 」
ヨハネによる福音書 1章29~34節
 見よ、神の小羊―イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」。洗礼者ヨハネはそうイエスを見て言った。この方はそう神に定められて世に来た。自らを世界と私たち人間の贖罪のために犠牲獣として神に捧げ、人の罪によって十字架に上げられて、その死によって世の罪を取り除かれるという。
 いつまでもクリスマス気分でいるなかれとでもいうように暦は進む。私はクリスマスぼけか、さながらクリスマスロスだ。あの飼い葉桶に寝かされた神の子赤ちゃんイエス様は、生まれたばかりだというのにもう「神の小羊」と指さされてしまう。ぜひとも心に灯された命の光を消すまいと力むのだが光はかすんでいくかのようで力が入らない。わが心は、もう少し、可愛いイエス様でいてほしいのか。
 画家ムリリヨの「神の羊飼い」と題された絵葉書が机の上にあるのに気がついた。神の羊飼いなのだが神の小羊に見えてくる。幼子のような羊飼いが一頭の小羊に手をかけてこちらを見つめている。イザヤ書11章のようだ。エッサイの株からひとつの芽が萌いで、若枝が育ち、その上に主の霊が宿る。知恵と識別、思慮と勇気、主を知り、畏れ敬う霊。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。小さい子供がそれらを導く。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。それは、無邪気で柔和な、だまされやすい坊や。神の小羊、犠牲獣。人の弱さ、低さ、小さきを知り神の愛をもたらす、清潔で愛くるしいお方。そのような羊飼い。
可愛そうか、気の毒か。君の贖罪のために生まれたお方。喜んで迎え入れておしまいか。宿っていただいて事足りたか。もう受け身ではいられない。今度はこちらの番だ。いつまでも甘えてばかりではいられない。気の毒か、申し訳ないか。君はどうするか。イエスが自分のほうへ歩いて来られた(29節)。わたしは、どうするか。