今週の説教要旨(2020. 1. 19)

1月19日花

説教題「 来て見なさい 」
ヨハネによる福音書 1章35~51節
 「来て、見なさい」(46節)、まあ、いいから、まず来て、自分の目で見てみれば、必ず分かるから、さあ、」とフィリポは言った。偏見から逡巡し、あるいは疑い惑い、億劫がるナタナエルに、いいから、まず来て見てくれ、と招いたのである。
そこにいちじくの木の話が出てくる。イスラエルでは豊かに生い茂るいちじくの木の下でしばしば瞑想する習慣があるのだという。また聖書にもよく登場して、まことのメシア王の平和な支配のもとで賢明に信仰一途真実に生きるイスラエル人たちの姿が理想的に描き出されている。ゼカリヤ書3章にこうある。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。その日には、と万軍の主は言われる。「あなたたちはその日には互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木の下で招きあう。」今日のみ言葉にぴたりと重なり合うではないか。
ここは、新共同訳聖書では「最初の弟子たち」と小見出しがある。イエスには、はじめ五人の弟子たちが召し出されたらしい。その様子が生き生きと映し出されている。言葉少なだが、かなりの動きがわかる。使われている動詞も、一緒にいる、歩く、見つめる、見る、聞く、従う、振り返る、訊く、見る、来る、泊る、会う、連れていく、出会う、見出す、来る、見る、信じる、などとシンプルだ。基本的に言葉はいらない、来て見ればわかる。そんな素晴らしい方がイエス様なのである。
その翌日、と二回出てくる、来る日も来る日も、少しずつ、必ず、招き合って、主イエスのもとに集まってくる。それは神の国の前進。私たちの日々も、主が共にいて下されば、実は神様の恵みと真実に満ちている毎日だ。主のもとに招き合おう。まず、来てみなさい、とその方もこの私と皆を招いている。すると、もっと偉大なことを見ることになる。このことを私たちは知っているだろうか。そうだ、来て、見ようではないか。いや、まだ、誰も完全には知らないのだ、行って、見ようではないか。