今週の説教要旨(2020. 3. 1)

3月1日花③

説教題「 受難の道を 」
マタイによる福音書 4章1~11節
 レント(受難節)が始まった。レントという言葉は古英語の「長くなる」から来ていて、陽が伸びる喜ばしい春の到来をも意味する。一方、古ドイツ語ではずばり「断食」のことであり、今のドイツ語でも直訳的に訳せば「断食の時」である。レントは「断食と悔い改めの時」である。断食をして、主イエス・キリストの自分たちのための受難を、自分も身体で感じて、そうしてこそ、心で深くその愛と恵みを感じ、いただいている救いの恵みを思い起して悔い改め、感謝と信仰を新たにするのである。
だが、主イエスは断食についてこう語った。偽善者のように沈んだ顔つきをするな。彼らはわざと顔を見苦しくして人々に見てもらおうとしている。そうではなく、かえって髪に油をつけ、きりっとして人に気づかれないようにしなさい。そして隠れたところにいらっしゃる父なる方に隠れたその本心を見ていただきなさい。(マタイ6:16)少し飛躍するのだが、これは、むしろ感謝して喜べ。あなたはすでに受け入れられ救われている。そのしるしが私の受難と死だ。だからむしろそういう自分を受け入れて喜び、感謝しろ。それが私の喜びだ。そういうことではないか。形ではない。心から悔い改めて感謝すればよいのである。
最近出た礼拝事典に、受難節は「かつての洗礼準備の期間であり、キリスト教会全体にとってキリストの受難を記念する悔い改めの時である」とある。洗礼は自分もキリストと一つとされていることを知る感謝と悔い改めと新生の時である。断食も自分が主イエスと一つであることを、より深く知るためのものである。
受難節はキリストの十字架によって、すべての人が神に喜ばれていることを知る感謝と喜びの時である。そう知らされて私たちは悔い改めるのではないか。ただ受けて知る計り知れない恵み。そうだ、感謝して喜び、更にそのための主の代価を知って恐れおののきまた悔い改め、更に恵みを知らされて感謝して喜び、私たちは「恵みから恵みへ」と生かされる。レントもまた、感謝と喜びの時以外ではあるまい。