今週の説教要旨(2020. 3. 15)

3月15日ろうそく②
説教題「 受難の予告 」
ヨハネによる福音書 6章60~71節
 説教題を「受難の予告」とした。普通「受難予告」と言えば、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の三つの福音書に記されている主イエスご自身の言葉だ。たとえば、マルコによる福音書では「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日ののちに復活する。」とか、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活することになっている。」「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」という三度の受難予告が記されている。他の福音書でもほぼ同じ形式と言葉になっている。実はそうした「受難の予告」はヨハネによる福音書にはない。
けれども今日の聖書に記された内容は十分に「受難の予告」と言ってよいだろう。
ここでは、多くの弟子たちは主イエスの言葉につまずき、イエスの周りから多くの弟子たちが離れ去り、更には、なんと十二人の弟子たちの中にやがて裏切る者が出て、結果、主イエスは、もといた所に上ることになる、、、というのである。
他の福音書の受難予告では主イエスの受難の責任追及の手は弟子たちに及ばない。しかし、今日の聖書は恐ろしきかな、主イエスの受難に十二弟子さえも加担していたと語るのである。シモン・ペトロの信仰の告白にも空寒いものを感じる。つまり誰もが実は、主イエスを置き去りにし、主イエスはただ独りの味方もなく、受難の道を行くことになる。この私も、いや誰一人として例外なく、主イエスの受難と十字架の死を止めることができなかった。そればかりか誰もが主イエスの受難に加担しており、人みなで主イエス・キリストを十字架につけたのだと告白すべきことに思いは至るのである。イエス様以外の誰もが神の業を受け入れなかった。神を拒否したのだ。だが、これで半分だ。主の恵み、父の愛のなんと深いことか。驚きと感謝のみ!