今週の説教要旨(2020. 3. 29)

3月29日花⑦

説教題「 一粒の麦が 」
ヨハネによる福音書 12章20~26節
 私たちは愛する主イエス・キリストの地上での大切な最後の日々の出来事を追っている。今日の御言葉はご自分の命の意味を自ら悟り、弟子たちに教えるように放たれた。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 栄光を受けるとは、神の子としての栄光すなわち神の栄光が隠されることなく現されることである。また、全ての人がそのことを認めて称賛することを言う。イエスの時は、ヨハネによる福音書ではこれまではまだ「私の時はまだ来ていない」と言われていたのであるが、ついに今、「私の時が来た」と言っているのである。イエス様が十字架につけられる、その時が来たのである。主イエスが十字架の死に赴くことによって、すべての人に永遠の命がもたらされ生きるようになる。このことである。
ユダヤ人の過越祭で膨れ上がっていたエルサレムの人口の中に、世界中から神を礼拝しに来たユダヤ人にまじって、異邦人でありながら「神を畏れる人々」(使徒10:2、22)がいた。この人たちは割礼を受けてユダヤ人(ユダヤ教徒)として改宗はしないが、聖書に親しみ律法を重んじ、神を神として礼拝し生活する人々である。そうした人々の中にナザレのイエスにどうしてもお会いしたいと願って、ユダヤではない当時辺境であるガリラヤ出身のフィリポをついに探し当てて来た人々がいた。主イエスはこれをもって時は満ちたと判断なさった。ヨハネによる福音書はこれよりその「栄光の時」「私の時」を語り告げるのである。十字架の死は栄光である。
主イエスは、ヨハネによる福音書では神の栄光を現わす六つの「しるし」をもって人々を永遠の命へと招いてきた。つまずく人々に、それを表面的に見て信じるのではなく、見ないでも言葉を聞いて信じる信仰へと導いてきた。そしてついに、七つ目の「しるし」を待ち望む番になる。その前にイエス・キリストは十字架の死へと赴かれる。十字架の上に上げられることになるのである。