宣教への招き(2020. 7. 19)

7月19日花②

宣教への招き
説教題「 復活の希望 」
使徒言行録 24章 10節~21節
 パウロはエルサレム神殿での騒動で逮捕されたのち、23章6節ではサドカイ派とファリサイ派の議員たちが居並ぶユダヤ最高法院の法廷で「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と叫びました。24章では今度はカイサリアに場所を移し、ローマ総督フェリクスの前に出て、わたしは「死者の復活のことで」今日、裁判にかけられていると再度弁明しています。
宣教題を「復活の希望」としましたが、私たちはそれほどまで、パウロが命を賭して宣教したいほどに、それほどに、死者の復活を望みとしているでしょうか。
更に15節でパウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望はこの人たち(パウロを訴えているユダヤ人たち)自身も同じように抱いております。」だからこそ「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」と語りました。
今日のこの聖書の言葉は、私にとっては衝撃です。皆さんはこのパウロの言葉をアーメンと言って受け取っていましたか。私は、今まで当然わかっていたつもりになっていましたが、そうではありませんでした。神我らと共にあり、という言葉が、君らと共に神はいない、という意味を持ってしまうのと同じように、復活についても、正しい者だけが復活する。キリストを信じている者だけが復活する。ともすればそのように間違って思い込み、語ったりしてはいなかったか。そんなことを言う側に自分がいることにハッとさせられたのです。驚きというか衝撃でした。本当は独りよがりの自分の罪深さを突き付けられた思いです。皆さんは大丈夫でしょうか。
皆、復活するのです。自分たちだけではない。皆、復活するのです。だからこそ皆、神の前にも人の前にも誠実でいるべきではないですか。そのことを知らされるのはチャンスです。それでこそ復活は希望です。皆さんそうしましょう。