宣教への招き(2020. 9. 13)

9月13日花

宣教への招き
説教題「 新しい生き方 」 
ローマの信徒への手紙 7章 1節~6節
 先週から私たちは、「新しい生き方」「新しい人間」にこだわっています。教会で洗礼を受けて、キリストと結ばれた自分たちは、「古い生き方」と決別した。もはや「古い人間」ではない。どうしてそうなったのか、なにがあったのか、それを聖書の教えから学び直して、自覚して励んでいこう、というわけです。
今日のところは、聖書的に言うと、一体自分たちは、誰に(何に)仕えているのか。誰が自分たちの主君であり、誰に支配され、誰のもとで存在し、どのような状態にあり、一体、自分たちは結局、誰に属し、誰の所有であるのか。それを「かつて」と「いま」に分けて、きちっと考え、とらえ直し、今の自分たちの存在と、これからの自分達の生きる筋道をはっきりさせようとしています。
6節に限って考えますと、こういうことです。
「古い人間」は、律法に支配されて存在し、律法を守って生きようとする中で全然それができずに罪ばかりを知らされ、人間が罪にまみれた者以外ではないことに絶望しつつも、人を生かさず死に至るほかない律法の文字に隷従するという「古い生き方」によって、何者か得体の知れないこの世の支配者に仕えていました。
しかし、「新しい人間」は、キリストに支配されて存在し、生き生きと生きられるようになった存在です。罪をゆるされ、解放され、”霊“に従って自由に生き、愛と希望と「新しい生き方」によって、すべてのものの主キリストに仕える者なのです。
仕えるとは、一番素晴らしいものに喜んで仕えるのです。そうです、「新しい人間」は礼拝をします。礼拝は「仕える」ことです。神が仕えて下さり、その恵みに対して私たちも仕えることが礼拝です。この喜びを知る者は神のゆるしを受けとった者です。神様に罪をゆるされ、キリストにお会いして感謝して、喜んで、賛美して、生き生きと生き始めます。兄弟姉妹愛のうちにゆるし合い、隣人愛をもって世の人々と共に生き始めます。礼拝が「新しい人間」の生き方の原型ということになります。