宣教への招き(2020. 9. 20)

9月20日花

宣教への招き
説教題「 自由に服従 」 
ペトロの手紙 一 2章 11節~25節
 今日の聖書の御言葉をすうっと読むと「神の僕(奴隷)として生きる」と見出しがあるのに、すべて皇帝など上に立つ人や人間が建てた制度に服従しなさい、とあって皆さん違和感はありませんか。後半では「召し使い(奴隷)たちへの勧め」と続いて、無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい、とあって承服できない気がします。しかも、私たちの主キリストも模範としてそうされたから、とも読めるので、これが聖書?と訝ってしまうのです。ここは、奴隷制度なくして世界が成り立たなかった古代社会が前提になっています。最初期のキリスト教は奴隷制度に何の矛盾も疑問も感じることが出来なかったようです。また悪い支配者にも従順であれ、などと、強大な支配力を持つローマ皇帝が君臨する世界に、未だ認知されていなかったキリスト教徒がどのように生き延びて主の証しをしていくべきかの指針がこれだとすると、切なくなってきます。人々が、どこから切っても今に通じる普遍的なことを教えているのが聖書だと考えているならば、きっと躓いてしまうでしょう。
それでも御言葉がなにを語っているか、何度も何度も読めば分かると思います。先週も私たちは「新しい人間」であり「新しい生き方」に招き入れられているのだと、聖書から聞いたのです。私はこうも書きました。「自分たちは誰に(何に)仕えているのか。誰が自分たちの主君であり、誰に支配され、誰のもとで存在し、どのような状態にあり、一体、自分たちは結局、誰に属し、誰の所有であるのか。」
その答えは神であり、魂の牧者であり監督者である主イエス・キリストです。私たちはこの世の勢力に支配され奴隷であるかのように見えても、本当は自由人であり、神にのみ属する神のもの、神のみの僕(奴隷)です。いえ、実は皇帝もこの世の支配者も皆同じく神のみの下に服従する者です。その観点から神を畏れ、兄弟姉妹を愛し、人々を敬い、神の僕として行動する。これは実は今の世界中の人々が当然とするに至った人間の生き方です。世に隷従はしない自由人として声を上げましょう。