宣教への招き(2020.10. 04)

10月4日花

宣教への招き
説教題「 神の富と知恵 」 
ローマの信徒への手紙 11章 33節~36節
 今日の聖書で使徒パウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と感嘆しています。情報化社会と言われて久しく、もう手軽になんでも知ろうとしてある程度それができてしまう時代になりましたが、本当の知恵と本当の豊かさはそれと反比例して、人類がなにか愚かになっていく気がするのは私だけでしょうか。
一方、神様の豊かさと知恵はとてつもなく深く、広く大きいのです。それは人間が知ろうとして到達するものではありません。わたしたち人間はむしろ逆に神様にすべて知られている存在です(詩編139編)。わたしにはなんだか世の中すべて主語が逆のようにも感じるのです。自分でなにもかも出来て一人で生きているような気になっていたら違うのです。私たちは存在させられ、生かされ、守られ、過ごさせてもらっているのです。それをするのは人ではない。感謝を忘れてはなりません。
信仰者は救われて生かされてある今を思う時、なにゆえ神はこのような人の子を顧みられるのだろう(詩編8編)と、救いがたい罪人をよくぞ神様は救って下さったその驚くべき恵みに跪き賛美しないではおられません。そうしてまた感謝し、新たに悔い改めて、前を向いて歩いて行ける。そんな豊かさを感じて更に感謝を深めるものです。たぶん神様の真理、その御業、殊に救いの御業は、人の目には不思議で逆説的なのです。十字架の言葉は滅びゆく者には愚かだが、救われる者には人を本当に生かす神の力です(Ⅰコリント1:18)。極めつけが主イエス・キリストの十字架の死からの復活です。絶体絶命から道が開けるのです。そして絶体絶命の滅ぶべき人間が、主イエスの十字架の死によって救われて、生き生きと生き出すのです。
今年度のテーマ「主の山に備えあり」もそうです。主題聖句~信仰のないわたし達が救われているという、神の恵みの豊かさ、深さに感謝と讃美を捧げるのみです。