宣教への招き(2020.10. 18)

10月18日花

宣教への招き
説教題「 上を目指して 」 
フィリピの信徒への手紙 3章 7節~21節
 向上心は何事にも大切である。より上の目標を追い求めて努力する。はじめは力強く勢いがあり多く励む。やがて量より質を磨くようになる。時間はなくても努力して質が高まるように最善を尽くす。少しでも1ミリでもよりよく、素晴らしく、上へ。なにをどれだけよりもどのように、の世界にしのぎを削ることになろうか。そして人間だれしも、ある達したところに従って様々に思う思いがあるだろう。
フィリピの教会において、信仰においてこうしたことで自己を誇って、完全を標榜するパウロの反対者たちが現れた。宗教的情熱においても、特に神の教えの行いについて、つまり救いにおいて完全の域に達してそれを得たと、自己満足して己を義とする人々である。この反対者たち対してパウロは彼らの用語を用いてシニカルに反論する。パウロは諭す、完全とは完全を追い求め続けることだと、常に向上心を持ち続けることだ、と、これは「新たなる律法主義」を主張するのではない。完全な者は前のものに全身を向けつつ上の目標を追い求めてひたすら走ることだ、と。
目標とはキリストご自身だ。上とは天の本国だ。では完全とは・・・
完全を求めた一人の「金持ちの青年」を思い出した。(マタイ19:16~22、マルコ10:17~22、ルカ18:18~23)。善い先生、とイエスを呼んで近寄ってきた彼は小さい時から善いことは全部行ってきたが、永遠の命を得て天国に入るためにはあと何をしたらよいのかと尋ねてきた。イエス様は彼に、「完全になりたいのか」それなら「欠けているものが一つある」と言われた。それを聞いて彼は悲しみながらイエスのもとを立ち去ってしまった。それだけはできないと思ったのだ。
彼は何を追及していたのか。本当に善い先生、善い方を求めて愛しているなら、立ち去らずに神様の下にイエス様と共にいることが喜びのはずだった。どんなに自分がだめでも、上を目指していつも主にあって喜ぶことができたらもう幸いなのだ。