宣教への招き(2020.11. 8)

11月7日花①

宣教への招き
説教題「 選びの不思議 」 
マタイによる福音書3章 7節~12節
バプテスマのヨハネが荒野に現れました。悔い改めて(罪から離れて)洗礼を受けようとする人々に厳しい言葉をもって臨みました。おう、来たか。よいか、「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。神はこんな石ころからでもアブラハムを起こすことがおできになる」。自分たちはアブラハムの子として選ばれた者であるなどとつゆほども思ってはならない。むしろお前たちは蝮の子だ。選ばれていることをいいことに神をないがしろにしている。これからは、まっとうに生きるのだぞ、もう罪をおかすなよ、と。神の裁きの権化の如くに迫るヨハネでした。
その一方でヨハネは「わたしの後から来る方」の卓越性を語ってイエス・キリストの間近な到来を告げています。その後、私たちは、イエス様がいらっしゃって、慈愛をもってこうおっしゃったのを知っています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(マタイ11章)「あなたがたの目は見ているから幸いだ。その耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく、多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができなかった。あなたがたが聞いているものを、聞きたかったが、聞くことができなかった」(13章)。
イエス様はむしろ選ばれざる人、と人々が思っている者たちのところに来ました。イエス様は彼らをこそ選んだ。いいえ、これは神様の大きな愛をお示しになったのです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。神が神の子イエスを賜ったことにおいて、私たち世のすべての者が選ばれているのです。ですから、皆が悔い改めなくてはいけません。神様をないがしろにしていたことを改めて、神様、イエス様と共に生きて喜ぶことです。それこそ選ばれた者の救いなのです。選ばれている者、みなが悔い改めてクリスマスのイエス様をお迎えしましょう。