宣教への招き(2020.11. 22)

11月21日花②

宣教への招き
説教題「 キリストの平和 」 
マタイによる福音書 25章 31節~46節
今日の聖書は、終末における裁きで祝福を受けるか滅びを言い渡されるか。その決定性はあなたが今どう生きるかである、というイエスの招きの物語と言われる。
あるいはこうも言われる。人が天国を約束されるのは、困窮者への無償の愛の行為を一度でもしたか、ただその一点に尽きる。「主よ、いつわたしたちは」とは、イエス様にしたことを覚えてもいない。つまり無償の行為ということなのである。
だがそういうこと以上に、そうだ、それ以上に、今日の聖書は受難週における弟子たちへの主イエス最後の説教だ。マタイ10:40~42の弟子たちを派遣する別れの言葉に似て、イエス様の派遣の言葉=遺言=訓示と祝福(約束)なのだ。これに聴こう。
「恐れるな、小さな群れよ。」小さな者たちとは主を信じる者たちである。その中の一人はわたし(イエス)であり、主はそこに、その中に共にいらっしゃる。
そして「弟子たちよ、我に従え」最も小さな者とは主の弟子たる伝道者であり、小さな者たちのただ中に共に生き、最も低くなって仕えるものだ。そうだ、彼らは、投獄され、飢え渇き、みずぼらしい身なりで、定住することなく福音を伝えるのだ。
次に「読者よ、我が伝道者を受け入れよ」いつの世でも、この最も小さな者の一人(福音の伝道者)に水一杯でも与える者は、祝福されるのだ(10:42)。それは、わたし(キリスト)にすることなのだ。
最後に「君よ、我に従え。」救い主イエス・キリストは、かつての伝道者たちと共に、我らの困窮のただ中においでになった。あの困窮の中で、君に水一杯を差し出してくれたのは誰だ。それはイエス様である。
わたしの無償の愛?いいや、これは主キリストの大きな無償の愛の物語である。主の無償の愛によって、またそのただ中で、わたしたちは共に生きている。だから感謝して互いに愛し合い、弱く、小さく低くされた人々のただ中に共に生きよう。