宣教への招き(2020.12. 27)

12月27日花

宣教への招き
説教題「 主はわが光、わが救い 」 
マタイによる福音書 2章 1節~12節
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」けれども学者たちは、星とその光そのものを喜んだわけではありません。学者たちは先に告白しています。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ですから、その喜びは、彼ら自身の王を見出した大きな喜びなのです。そしてついに、家に入って、「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げ」て、喜びに満たされたのです。今日の聖書は、私たちも学者たちとともに御子を見出して喜びにあふれたなら、次には救主御子を拝して王にふさわしい最高の贈り物を捧げものをして喜びに満たされるべきことを教えるのです。
ルカによる福音書の17章11節以下に、イエス様が10人の重い皮膚病を癒したのに、イエス様のみもとに戻って感謝したのはその中の一人だったというお話があります。そういうことではいけないのです。救いを受ける作法はやはりあるのです。
詩編の「主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう」という言葉は、すべての人の救い主なるこの方が、まさにこの「わたし」の光、「わたし」の救いと告白賛美しているのです。その王様、神様、救い主を「わたしの」王様、神様、救い主とするということは、それにふさわしい作法や礼儀、お付き合いの仕方がやはりあるというものです。
ところで最高の捧げもの、ふさわしい作法とはなんでしょう。学者たちが捧げたものは、もちろん最高級の宝だったでしょうが、それは私たちにはかないません。大切なのはむしろその黄金、乳香、没薬を捧げた意味です。それは「この方は、天の神からの聖なる方で、その死によってすべての者を救う、また支配する王」だと告白してひれ伏しで拝しているということなのです。私たちもそのような方として御名をあがめ、主を「わたしの光、救い」として賛美礼拝を捧げることがその作法なのです。

クリスマスおめでとうございます。
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