宣教への招き(2021.1. 3)

1月3日花

宣教への招き
説教題「 夢のお告げ 」 
マタイによる福音書 2章 13節~23節
今日の聖書は「夢のお告げで聖家族と幼子イエス様が救われた」というわけです。夢のお告げ、こどもの頃、指を左右に指しながら「神さまのいう通り」とやったことを思い出す。学校で禁止された遊びで「こっくりさん」というのもある。あれは、本人の願望のように文字の方に手が動くのだと聞いて、ははぁなるほど、と思った。 
『礼拝と音楽』187号では以下の解説の言葉がある。神の声は、いずれも「ヨセフが聞きたかった声」ではなく、「その時に必要だった声」です。神の声は「聞こうとしている時」に聞こえてきます。自分の思いも寄らない方法も含めて、ありとあらゆる方法で聞こえてきます。だからいつも耳をそばだてて、しっかりと聞かねばなりません。いつも「聞く姿勢」を整えていなければなりません(80頁)。
夢のお告げに聖家族が従う、というのは、そうとう追い詰められている。私たちにも振り返ればそんな夜があったはずだ。勝算や公算、助かる見込みがあるわけでもない、命を引きからげて、これからどうするか、という状況なのである。ヨセフたちの場合、そこで、「夢のお告げ」に従った。結果、多くの犠牲が払われた。本当に命からがら、なんとか救われた。結果、旧約句は成就し、救い主と聖家族は救われた。
ヨセフはやはり「正しい人」だったのだと思う。それは、一義的には律法を順守する、信仰の人ということで、だからこそマリアの懐妊がわかった時、人生が終わったと感じたのではなかろうか。優しい彼はひそかに別れようとした。表舞台の人生から身を引こうとした。だが、彼の正しさはそれだけではなかった。あの時も「夢のお告げ」があり、マリアとその子と人生を受け入れる決断をした。「夢のお告げ」を、わが神の、自分への御言葉と信じて、決断したのだ。
律法や聖書はもちろん大切ですが、わたしたちには「夢」も大事ではないでしょうか。いや、ヨセフや先輩の信仰者たちは、夢のお告げどころか、なんでも「神さまの言う通り」として、夢ではない、神様ご自身に従ったのでした。幸いなるかな。

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