宣教への招き(2021.02.07)

2月7日花②

宣教への招き
宣教題「 癒しの祝福 」 
マタイによる福音書15章21節~31節

 ティルスとシドンの地方というのはイスラエルから見ると明らかに外国、異邦人の土地である。この地に生まれたカナン人の女がイエスに懇願して悪霊にとりつかれている娘にいやしが与えられた。愛は越境する。いやしは境界を越える!これは、イエスの福音が境界を越えた記念すべき出来事、福音である。イエスは当時のいわば禁を犯し、女性の信仰をほめたたえ、異邦人をいやし、救った。
「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」(エゼ34:4-6,16参照)イエスは弟子の派遣の際にも「異邦人の道に行くな」と教えているので、当時のイスラエルの規範を尊重し外れていない。置かれた時代の宗教的枠の中で活動をするべきだと語っている。しかし、どうだろうか、一方で、旧約聖書では、やがて終末の時には、イスラエルも異邦人もなくすべての国民が主の山に集い、主の礼拝の祝宴に与る。平和と正義が達成される完全な神の救いがあまねく成就するときにはすべての民がこれに与るとある。聖霊を受けた初代教会では、使徒言行録やパウロが伝えるところによると、神の聖霊こそがこれを示し、これに使徒たちが倣っていったとある。イエスにおいて、終末の救いが始まっていたのだ。
その記念すべき門が今日のカナンの女によってこじ開けられた気がする。愛は越境し、癒しは境界を越える。愛も癒しも、受ける一方でないだろう。癒やすほうも、癒されるほうも、変わった。愛のために変えられたのだと思う。愛のため、逆さに読むとメタノイア。意見や考え見方が変わり、生き方が変わること。方向転換、悔い改め。この女との出会いに主イエス自身が変えられたのか、ついに歴史が動いた。終末の完全な救いに向けてイエスが境界を越えた。私たちも間違ったものの支配から真の神の恵みの支配へと越えていかないといけない。その線は自分たちが作っているのかもしれない。行けないと思い込んでいるのではないのか。いまや愛が呼び自由が呼び、真理が呼んでいる。越えて生きよう。触れて生きよう、大胆に近づこう。主は近い、癒しが待っている。

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