宣教への招き(2021.02.14)

2月14日花④

宣教への招き
宣教題「 信仰小さき者 」 
マタイによる福音書14章22節~36節

 先週のイエス様はカナンの女に対して「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。「おお女性よ、なんと大きいのだ、あなたの信仰は」と。今週は男のペトロに対して「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。信仰の薄い者よ、の直訳は「小さな信仰の者よ」。信仰は女が大きく、男は小さい。いや信仰も?女性の方が大きく、男性の方が小さい。ほかに女が大きく男が小さいものは何だろう。信仰というのは信頼とも真実とも誠実とも訳せる聖書の言葉だ。他にはなんだろう、器量とか、肝っ玉とか・・・
先週の女性は、本当に幾重もの屈辱的な立場、見られ方を受け入れて、その受けた言葉を使って議論をし、相手に文句などではない、反論をして、ついにイエスの考えを変えさせた唯一の人間となった。議論は女性に特有のものか、そうではあるまい。しかし事実に向き合って協議して結論を導き出す、その真剣さ、切実さ、熱意、信頼ゆえの謙遜さ、粘り腰、まっすぐさが現実を変えた。もう本当にこれ以上となく素晴らしい。一方わがご同輩ペトロは、いかにも幼い、甘い、他愛ない、勢いで進む軽々しさよ。感激して舞い上がって俄然突っ込んで失敗する。
「主よ、あなたでしたら、命令して、水の上を歩いてこちらに来いと言って下さい」しばらくペトロは進んだが、強風に気がつき怖くなり、沈みかけた。それで主イエスに救っていただくのだが、その時主は言われた。「なぜ疑ったのか」これまた、疑い深いトマスを思い出す。男は信仰でなく疑いが深いか、信仰小さき者なのか?
しかしこの疑うという言葉はためらうとも訳せる言葉だ。すると主イエスは「信仰の小さい者よ、なぜためらったのか」となる。なぜ、そのまままっすぐに、ガーンと行かなかったのか、信じてずーっと来なかったのか、となる。こうなると、女とか男とかではなさそうだ。わたしたちみんなのこと。信じるということは単純素朴、これが一番だ。愛も純粋、単純素朴、それに、いつまでも変わらない、と続く。これはイエス様の愛。こちらが途中でためらっても、必ず救ってくださる。だから安心して、ためらわずに行こう。大きいのは女でも男でもなく神の子イエス様だ。

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