宣教への招き(2021.03.28)

3月27日花

宣教への招き
宣教題「 十字架のイエス 」 
マタイによる福音書27章32節~56節

 今日は受難週のはじめの主の日、棕梠の主日である。小さなろばの子に乗ってエルサレムに入城する平和の王イエスを大勢の群衆が歓呼して迎えた。棕梠の枝をかざして道に自分たちの服を敷いて「ホサナ、主よ救って下さい」と群衆は叫んだ。讃美歌309はこのシーンを歌う讃美歌だが、4節に「われらの祈りを受け入れたもう、恵みに満ちたる主は王なり」とある。それはまさに実現した。われらの祈りはこの恵みに満ちた王によって受け入れられ、われらの救いは成就した。ではどのように成就したのか、それが、今日の聖書である。
主イエスは、ご自分で十字架を背負って運べないほどに疲れていた。あの、人を愛し柔和で慈愛の方、言葉と真実をもって道を示し人々を癒し喜びと平安で満した。この方こそユダヤ人の王であり、聖なる神の子であり、救いの主であった。だが、無言のまま、自分を救わずに、十字架から降りずに、まったく孤独に、人々から排斥されて、一人で死んでいく。屈辱と苦痛、悲しみと孤独の中、主イエスは十字架にかけられて死んだ。父なる神に見捨てられた子の叫びを叫んで、悶絶して息を引き取った。これがわれらを罪から救う、弱い、低い、平和の王、神の子、救い主だという。
昼の十二時に「全地が暗くなり」とある。これについてはアモス書にこうある。その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛も切り落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与えその最期を苦悩に満ちた日とする(8:9,10)。この終わりの日の預言が、受難週の金曜日に実現したのだと読むことができる。
またアモス書にはこうもある。災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前にとってなにか、それは闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない(5:18,20)。主の日とは終わりの日のことである。仮定してみよう。すべては終わった、と。

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