宣教への招き(2021.06.06)

6月5日花

宣教への招き
宣教題「 悔い改めへの招き 」 
ルカによる福音書15章11節~24節

 今日の聖書は良く知られている放蕩息子の話である。感動的なこの物語りの勘所が17節の「我に返る」ということだとするならば、ちょっと違うと思う。「我に返る」というのは正気に戻るとか蘇生するという意味なので、文字通り元の自分に戻ることだ。その場合、元の自分が極悪であるならばそもそも話が台無しになる。すると、この話はいわゆる馬鹿息子をむかえた馬鹿親父の話になってしまう。が、案外そういうことなのかもしれない。しかしその場合、彼の戻るべきところは父の懐であり、戻るべき場所は父のもとでの生活ということになる。
父親は帰ってきた息子を見つけて走り寄り接吻して祝宴を始めた。叱りも諭しもしなかった。ただ、戻ってくるのを、待っていたのである。ゆるす、全面的に受け入れる用意、罪をゆるす準備ができているのである。この話の主人公は父親のほうなのである。
エゼキエル書18:31,32はこう語る。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。父が、誰の死をも喜ぶ方でなく、どうにかしてお前に生きてほしい、と呼びかけるのは分かる。嬉しい。だが、自分のことがままならない馬鹿息子なのにどうやって、新しい心、新しい霊を造り出せというのか。できない。不可能だ。だが、一つだけ方法がある。それが、父のもとに立ち帰る。戻る。具体的に踵を返してダメな自分を引きからげて戻ることである。それが悔い改めである。ではなぜ、そんなことが可能なのだろうか。それは、神があなたを待っており、あらゆる背きをゆるす用意ができているからだ。帰ってきて、生きてほしいからだ。悔い改めの招きは祝福への招きなのである。立ち帰れ、戻って来いよ、悔い改めの招きは神が君をよいものをもって待っているという福音なのである。原町教会創立121年、これを宣べ伝えよう。

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