宣教への招き(2021.07.25)

7月24日花②

宣教への招き
宣教題「 みな、それをせよ 」 
コリントの信徒への手紙 二 5章18節~20節
マタイによる福音書 9章9節~13節

今日のマタイによる聖書の記事はマタイ、マルコ、ルカの三福音書ともに共通して記されている。とても価値の高い福音ということである。ただしマタイ以外では徴税人マタイはアルファイの子レビとなっている。イエスはマタイが収税所に座っているのを見て「わたしに従いなさい」と言った。すると彼は立ち上がり、何もかも捨ててイエスに従った。マタイはイエスを自分の家に招き入れ盛大な宴会が始まった。そこにいたのは、見よ、大勢の徴税人や罪人がやってきてイエスと弟子たちと同席していた。実に大勢の人が従っていたのである。これを見たファリサイ派の人々や律法学者が批判した。そこでイエスはこれを一蹴し、逆にそこで主は素晴らしい福音を賜ったのである。次の言葉が響き渡っている。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
さてどういう意味か。これはイエス様がホセア書6:6を語られたのである。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく 神を知ることであって焼き尽くす捧げものではない。」神の選んだイスラエルの民の、内心の伴わない形式的な祭儀、心からではない口先ばかりの礼拝批判である。立ち帰って神を愛し、心から神様と交われという、それこそ愛の呼びかけである。愛とは、憐れみとも慈しみとも訳せる元の言葉で、変わらない愛、そういう意味で固い、真実な愛。これが「いつくしみ」であり、「憐れみ」であり、これを「愛」というのである。「いつくしみ深い友なるイエスはかわらぬ愛もて導きたもう」の讃美歌の通りである。
さて、行って学べ、とは当然これを行えという意味である。意味が分かって終わりでは何も始まらない。始めるとだんだんと、そして更に生き生きとひしひしとわかってくる。何がか、言葉は短いが、主の愛が、である。感謝の、救いの福音である。
そして以上の愛の招きは、今日のもう一つの御言葉、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」このことを言っているのである。

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