宣教への招き(2021.08.15)

8月14日花②

宣教への招き
 
マタイによる福音書 12章43節~50節より

マタイ12:43~45節;薄気味悪い主イエスの言葉は22節以下のベルゼブル(ヘブル語で「家の主人」)論争との関連で遺されたか。悪霊の住む場所や家とは人のことである。その家の主人、あなたの内に住む主人は誰なのか。悪霊を追い出された人がそこに誰をも迎えないのならば、またぞろ悪霊が入り込むばかりか以前よりもっと酷く最悪になるのである。聖書では人は神の宮と言われ、聖霊の宮と言われる。(コリント一、二ともに6章)が、悪霊の宮ともなる。本当の主人であるイエス様をお迎えしないことには家全体の平和はない。戦後76年、日本国家、日本人の主人は誰になったか、真実の主人を主人として生きることが幸せの道であり平和な生き方である。しかしこれを受け入れないほどに人の罪は深い。十字架のイエス・キリストは神様から私たちへの若いと平和の祈りである。なんとかお受けしようではないか。
 46~50節;上記の意味で、人は家である。その意味で家の主人は主イエス・キリストである。その家は神の国である。その家の住人はただに血縁の関係ではない。それは天の父の御心を行う兄弟姉妹、母。主と共に生きる仲間、友、隣人である。
 主イエスの十字架の血潮によって神の和解と平和を与えられ、罪を許された新しい家族は、共に生きる。共に食い尽くし滅ぼしあうのをやめて、共に生かし生かされて生きる、主イエスと共に悔い改めた罪人徴税人からなる食事を共にし、イエスの言葉を求めて荒野で5000人の友と共にいただく祝宴を経験し、最後の晩餐に共に預かり、ガリラヤ湖畔で復活の主の焼いた魚を涙ながらに食らい、教会の者たちと貧しくも分け合い、出て行った隣人と共に分かちいただき、主イエスが主催してくださる喜びと平和の食事を再現して生きる。行って学び続ける。戦場でも共に食い、そしてきっと人々は、東から西から、南から北から来て、神の国で祝宴の席につく。こうして、山上の説教の至福の教えが、主の祈りが、実現されるのだろう。
 終戦記念日、敗戦の日。信仰、希望、愛。主にお委ねして、叫びながらでも歩こう。挨拶は平和を祈り、皆ともに平和の食卓を囲みともに食そう。

今週のこどものための小説教と宣教は講壇交換のため公開をお休みします。