宣教への招き(2022.8.14)

8月13日花⑤
宣教への招き
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」(申命記10:12~13)
モーセが最期の時にイスラエルの全会衆を前に、主なる神から授かった律法を遺言のようにしてもう一度語り聞かせた言葉の数々が申命記である。悔い改めて新たにされて生きよ、あなたの主なる神はあなたの幸せを願って今日もこう語るのだと。
申命記との名称は漢語訳聖書の名称と同じで、ふたたび命じる、繰り返し命じる、という意味の漢語から来ている。今日「敗戦の日」を前にして感慨深いものがある。あの敗戦の日まで先輩たちは何を神とし、主としていたのか。今の私たちは、まことの神を神とし、まことの主を主としているのか、今日問われているのである。
まことの神を神とし主としないことがまことの神の前に罪であるならば人類はまことに罪人である。しかしその私たちに、まことの神なる主は何度でも繰り返し命じる。それは、すでに、キリストにおいて神はすべての罪は赦しているからである。
すべての人が信仰を持ってほしい。正しく信仰をしてほしい。まことの神を神とし、まことの主を主として信じて従うならば幸せになる。そう神は約束し、赦しと祝福をもって私たちを招いている。神の願いはそのようにしてすべてのものが幸いを得ることである。まことの神をあなたの神として主として信じて従おう。  
「八月や、六日九日、十五日」という俳句がある。この日に、私たちは猛省する。私たちは何を神として主としていたのか。悔い改めて正しい信仰に立ち帰りたいと思う。まことの神を神とし主として信じて従わなかったこと、神を愛し隣人を愛さなかった悔い改めをもって、そうだ、何度でも繰り返し、原点に立ち返り、平和をつくる歩みへと呼び戻されて生きるのである。信じて従うのは、強制されて服従することではない。そこには真の自由と喜びと希望がある。そうではないだろうか。
まことの神を主としたわれらは今日、まことの主によって新たにされて生きよう。

こどものための小説教
https://youtu.be/7oDqyKnrLqU
宣教「 信じて従う 」
https://youtu.be/t0Ngb3s1cNQ