宣教への招き(2022.9.11)

9月10日花②

宣教への招き  
預言者エレミヤが神殿説教をして命を狙われた。この12章は受難週の火曜日、いまやイエス・キリストが本陣に切り込み、目の前の祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派の人々を痛烈に批判して神殿説教を繰り広げている。しかしその中で今日の御言葉は調子が違う。主イエスはこの律法学者の適切な答えとその振る舞いを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。このやりとりを見て、「もはや、あえて」イエスに続けて議論を吹っ掛ける者もなかった。つまり、イスラエル同胞が神から授かっている律法すなわち永遠の命を嗣ぐ者の掟を巡るやり取りに、誰もが一定の理解と納得を示したのである。
引用されている元の旧約聖書の言葉を引いておこう。主イエスが示した第一の掟は、申命記6:4,5(291頁)だ。実際に頁を繰るとこれはイスラエルの民が毎朝自ら唱えて己に叩き込む命の言葉=命への道であることが分かる。第二の掟はレビ記19:18(198頁)。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあって聖なる主の眼前で共に生きる聖なる民の倫理的教えが19章には続いている。どれが第一ですか、という律法学者の質問にイエスが二つ答えたのは、共に交読した詩編62:12が響いているのであろう。「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞く」というのである。そして同様に一つのこととして主の愛の掟を受け取った律法学者の返す言葉は、ホセア書6:6「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない」が自分の言葉としてものになっている。イエスと律法学者とのやりとりは対話として論理的には成り立っている。
さて、しかし愛するとは知ることである。知るとは深く交わることである。そして神を愛するとは唯一の神ご自身とイエス・キリストを知ること(ヨハネ17:3)である。この律法学者は「遠くない」が、近いのだろうか、交わりの外で見ているだけなのだろうか。悲しんでイエスのもとを去った富める青年を想い起こす。(マルコ10:17以下)。いや待て、「神の国は近づいた」。イエスの肉声に聞き従おう。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/wh9BnM9qW7g
宣教「 あなたはどこに立っている 」
https://youtu.be/ofur-XMH1sc