宣教への招き(2022.9.18)

9月17日花③

宣教への招き  
今やイエスは神殿の境内で大勢の群衆に向かって、詩篇110編を引いて語る。「律法学者たちは、メシアはダビデの子だ、どうして言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて、メシアをわが主と言っているではないか。」イエスのこうした教えを群衆は胸のすく思いで耳を傾けた。因みにヘブライ語聖書では初めの主は神なるヤハウェである。ダビデはまさに聖霊を受けて、1000年後に現れるメシアのことをわが主と呼び、眼前の天に挙げられやがて再臨する天的な王・神の子・メシアをこそわが主と信仰告白したのである。一方、律法学者たちがメシアをダビデの子と言う時、彼らは聖霊を受けていない。一般の人々と同様、メシアは自分たちに繫栄と栄光の回復をもたらすこの世の理想王と理解していた。彼らは聖霊を受けていない。メシアを目の前にしても、見る目を持たず、聞く耳をもたないであろう。
イエスは律法学者たちの偽善と自己栄化を容赦なく批判する。彼らは人よりもずっと長い衣をまとい、さも自分は人々とは違って聖く偉いのだと誇示し自己陶酔して歩き回り、広場で長い言葉で挨拶され、会堂では上席、宴会では上座を好み、称揚されるのを好み、やもめの訴えを裁くときには法外な報酬を取ってお得意様とし、偽善でこれ見よがしに長い祈りをする。メシアが来て語っても彼をメシアと認めないであろう。そうだ、イエスはぼろ衣をまとい、この世の重荷を背負い切れず疲れ果て苦しむ人々に福音を告げ夜昼なく巡り歩き、悪霊を追い払って癒し立ち直らせ、罪人と食事を共にすることを喜び、社会的に弱い立場にある者としての子ども、女性に限りなく優しかった。神を父と呼ばせ、子とされて完全に信頼して喜んで祈り、生きよと教えた。イエスは低くなった神、貧しくなった神であり、人の貧しさを知り、誰よりも低きに降る神。十字架で死を遂げるメシアであった。イエスは神の子でありながら天の座を捨ててこの世に降り人々と共に生きた。
そんな時、傍らに賽銭箱があった。そこでイエスは一人の貧しいやもめがささげものをするのを見て感動する。主イエスはこの人に慰められ、励まされて更に一歩、十字架へと、従順に向かう、主こそ貧しく、低く、小さく、また謙遜な方であった。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/RpuxlDzhjAQ
宣教「 目には見えないささげもの 」
https://youtu.be/8cKTng_LH2Q