宣教への招き(2023.2.5)

2月4日花

宣教への招き     
 今日の聖書は「種まく人」の譬えとその説明が示されており、現代ではこの説明部分は主イエスご自身が語られたのではなく教会の言葉だと考えられています。イエス様の生の教えの真意・方向を推し量って「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)と、み言葉の種(キリストの教え)を、つまり「神の命の言葉=福音」を、なんとかして懸命に保持しようとしてきた今日までの教会と言えましょう。
それでは21世紀の教会の私たちは、例えば以下の1世紀に書かれた聖書の言葉をどう受け止めたらよいでしょうか。
聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従うものでありなさい。(Ⅰコリント14:33~34)
すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神。男は神の姿と栄光を映す者あり、女は男の栄光を映す者です。男が女から出て来たのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。(Ⅰコリント11:2~16より)
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。(エフェソ5:22以降)
婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。(Ⅰテモテ2:12~13)
さて、2千年の人類の歴史の中で教会の私たちは、蒔かれた種を保持し「立派な善い心で」いることのほうが大切になってしまい、本当の主イエスの教えの真意・方向を見失ったりはしていないでしょうか。教会は現実の課題に向き合い、様々な声を受け止める対話のただなかで、神の言葉を取り戻していくに違いありません。

こどもたちへの小説教(イエスさまはよんでいる3-種まきのたとえ)
https://youtu.be/9ULqHs_mZJs
宣教 「立派な善い心で」
https://youtu.be/6I6V_tCzSvg