今週の説教要旨(2019. 6. 30)

6月ばら黄色
説教題「 ここに救いが 」
使徒言行録 4章5~12節

 古代世界において「名」はその人の本質とその能力を持つと考えられており、しばしば「名」によって呪術や魔術や奇跡が行われた。「イエス・キリストの名」はキリストの現臨を示す。それが魔術的でないのは、イエスではなく神が最終行為者である(3:9)ことから理解される。イエスの名も、神の道具として用いられるというルカの神学がここに表れている。いずれにせよ、イエス・キリストの名が、人を強くし、人をいやす。この名にこそ救いがあり、この名によって罪が赦され、この名が悪霊を追放する。信者はこの名を宣教するのである。(新約聖書注解Ⅰ)
そうしてみると、今日の聖書の4:7で当時のユダヤ社会の権力者たちがこぞってペトロたちに尋問し、お前たちは「なにの権威によって」「だれの名によって」と並列同義に用いているのは「現代的」とも言えよう。私たちは、「なにの権威によって」、「だれの名によって」生きているのだろうか。    
今日のくだりは3:6の「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」に端を発している。そう言われた男は、その名によって立ちあがり、喜び踊り、神を賛美して生きる者になった。かく言うわたし自身もその通り同様である。イエス・キリストの名、これこそあらゆる名にまさる名とフィリピ2:9にある通りである。
あなたは、なにの権威によって、だれの名によって生きているのでしょうか。あなたを救うのはだれですか。聖書は、「その名は天下に一つしか与えられていない。それは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられた、あのナザレの人イエス・キリストの名である。」と語っています。