今週の説教要旨(2019. 8. 11)

8月11日花

説教題「 涙を流す 」
哀歌 3章22~33節
 「哀歌」より引用します。エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。恥があばかれたので重んじてくれた者にも軽んじられる。道行く人よ、心して目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあっただろうか。わたしを苦しめるこの痛み、主がついに怒ってわたしを懲らす、この痛みほどの。主は天から火を送り、わたしの骨に火を下し、足もとに網を投げてわたしを引き倒し、荒廃に任せ、ひねもす病み衰えさせる。背いたわたしの罪は御手に束られ、軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ力尽きてわたしは倒れ、刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった。それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し、私の子らは荒廃に落ちてゆく。主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ、見よ、わたしの苦しみを。わたしのおとめらも若者らも捕らえられ、引かれて行った。わたしの民の娘は打ち砕かれ、わたしの目は涙を流す。わたしの目は休むことなく涙を流し続ける。主が天から見下ろし、目を留めてくださるときまで。
「哀歌」は5つの歌からなっている挽歌、哀悼の歌と言われます。しかしそれにしても今回通して読んでみて、これほどに慰めも励ましも希望もないものとは、と私自身感じます。今日礼拝で朗読された数句が一番明るいものだと言えるでしょう。これが聖書、神の言葉とはどういうことかと皆さんも思われませんか。それでも、涙を流す、涙を流し続けることは時にその人の人生にとって大切なことなのでしょう。人間の歴史の中には忘れてはならないことがあるものです。それはなんですか。涙を流し続ける、そのなかで私たちはなにをつかむでしょうか。