今週の説教要旨(2019. 8. 25)

8月25日花

説教題「 イエスの響き 」
テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節
 8節に注目します。響き渡るというのは、そこから響き(エコー)が外へと発出する、という元の言葉で、「主の言葉が響き渡る」というのは、福音がラッパの響きのように、雷鳴のとどろきのように、勢いよく外へ他へと前進する様子を表しているようです。発出もとはテサロニケ教会の信徒たちです。そこから、いうならばバルカン半島全体へ、主の言葉がラッパの響きのように発出されたのです。主の言葉ですから福音が響き渡った、と言っても言い換えてもよいでしょう。また、主の言葉ですから、正確に言うと発信元は主イエス・キリストご自身であります。
けれども、主イエスの言葉が語られて、福音が伝えられるということは、主イエスの目の前に、あるいは周りに誰かがいたということです。福音が語られるということは、主イエスの言葉と共にそれを受け取った人々のことが語られるものです。なんと幸いなのでしょう。その人たちのことは、主イエスとともに、とこしえに福音として語られていくのです。主の言葉が語られるところ、必ずその人々のことも語られることになるのです。主の言葉は彼らに語られた。そして、彼らは主イエスの言葉を聞いて、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。天から来られる主を待ち望むようになった。そのことを語るのが証しであり、そのことを聞くのが福音なのです。証しを聞く人々は、その証しを主からの福音として聞くのです。そして、語る者も聞く者も、10節でパウロがしているように、主の御名を崇めて感謝賛美するのです。証しとはそういうものと教わります。主イエスの目の前に証し人がいた、その感謝を語り、その喜びを生きましょう。「主の言葉(福音)が響き渡る」とはそういうことです。
でしょうか。