今週の説教要旨(2020. 2. 2)

2月2日花

説教題「 宮清め 」
ヨハネによる福音書 2章13~25節
 神からの恵みである大地の実り、その最上の産物としてのどんな芳醇なワインよりも、わたしの恵みは素晴らしい。そう言い放つかのように、恵みの香り立ち残して主イエスの一行はユダヤへ向かう。第一回目のエルサレム行きである。ヨハネによる福音書では三度、過越祭のためにエルサレムに上る。マタイ、マルコ、ルカによる福音書(共観福音書)では主イエスご一行がエルサレムに上るのはご生涯の最後、ゴルゴタの丘の上、十字架上の死へと向かう際の一度のみである。
さてエルサレムに着いて、まず、なさった主イエスの業はいわゆる「宮清め」と言われるものだ。優しいイエス様のイメージとは真逆のお姿だった。宮清めとは神殿を粛正するのである。神礼拝の在り方を威力をもって革新せんとするのである。その様を目の当たりにした弟子たちは詩編69編を思い起したという。それは全編にわたって、神を思い、人を憂うあまりの熱情が、かえって人々に誤解され嘲られ、迫害され、吊るし上げられ、死に追いやられることになる必然の悲しみが語られている。その後半は主イエスの十字架上の苦しみを映す言葉そのものである。イエス様の神と人への愛に圧倒されるとともに、それゆえに十字架に上げられてしまうことを思うと我ながら申し訳なさに言葉を失う。優しいという字は、人を憂う、と書くのだ。だからといって自分たちをいかんともしがたい人の世の思い、人の思い、自分自身のだらしなさ、罪深さに思い当たってなんとも言いようがなくなる。
しかし、主の愛は更に突き進む。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる。」これはあの最高法院の夜、でっち上げ裁判の際、確証ではないがイエスの涜神罪の言質となった。しかしそれは、主ご自身のからだとしての神殿のこと、すなわち死者の中からの復活のことだったのである。今、私はすべてを言葉にすることはできない。ただ、この方が私を生かしてくださった。この方によって私は救われた。そうだ、すべてにかかわらず、わたしたちは復活の勝利を帯びて生きたい。