今週の説教要旨(2020. 3. 8)

3月8日花
説教題「 主よ、信じます 」
ヨハネによる福音書 9章35~41節
 35節から39節はイエス様と「彼」との美しい感動的な対話である。主イエスは、見えるようにしていただいた「彼」が追い出されたと聞いて「彼」に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と問うた。「彼」は主イエスに、「主よ、その方を信じたいのですが。」と逆に尋ねている。信じたいのだが、よくわからないのだ。しかし主に全存在を注ぎだしている。主が「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言われるとすぐさま、ひざまずいて「主よ、信じます。」と告白した。
 信じたい、ということはとても大切なことなのだと思わされる。信じたいのだがよくわからない。結構なことである。私たちはしばしば信仰生活の中で「漠然と」主を信じている、という状態にある。では、信じるということはどういうことなのか。例えばあなたは、どうなりたいのか、何をしたいのか、なにをしてほしいのか。それを明確にすることは大切なことだろう。一方で、わからないのだが、目の前のこの方に、わからないままに全存在をかける、という信じ方もあろう。実際、「彼」はまだはっきりわからないままに主イエスを前にして、しかし一対一で、魂から注ぎだされた珠玉の言葉のやり取りの中から「主よ、信じます」との告白に至りひざまずいている。それほどの愛のやり取りが主と「彼」の間にあったのだ。そのあと主イエスは、「彼」は見えるようになった、と宣言している。
 見えない人が見えるようになり、知らなかった人が知るようになり、わからなかった人が分かるようになる。「神の業がこの人に現れるためである」(9:3)の主の言葉が響いてくる。わからなくても、必ずわかるようになるのだ。見えなくても、必ず見えるようになるのだ。なんだかわからなくても、主イエスと共にいることは嬉しいことだ。素晴らしいことだ。最後には必ず、すべてがわかるようになるのだから。そういう今はなんと幸いなことか。