今週の説教要旨(2020. 4. 5)

4月5日棕梠主日花

説教題「 イエスの死、なぜ 」
ヨハネによる福音書 18章28~40節
 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(ヨハネ12章)。ろばの子に乗ってイエス様はおいでになりました。本日は、主が棕梠の枝を振って歓呼する群衆に迎え入れられた棕梠の主日です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章)とある通りに見えるでしょうか。しかしその歓呼の声も週の金曜日の午後には「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19章)との怒号に変わります。受難週の間にいろいろな変化があります。イエス様をユダやペトロたち十二弟子は裏切り、大祭司はじめユダヤ人は憎悪し、ピラトに代表されるローマ帝国も、この企てをなすがままにさせ、この世をあげてイエス様を追放、排斥し、ついにイエス様は十字架に上げられてしまいます。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」しかし、「暗闇は光を理解しなかった」(1章4,5節)。
一方、暗闇の中にも福音は進んでいたのです。主イエスは弟子たちをきわみまで愛しました。木曜日の夜には弟子たち一人ひとりの足を洗い、後ですべてがわかるから、互いに愛し合いなさい。私につながっていなさい、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう。やがて悲しみは喜びにかわる。私は真理であり命であり、道である。あなたがたを一人にはしない。私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる、とこれから起こることをすべて教え、今や十字架に上げられ、ご自分の業を全うされようとしています。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」この3章16節以下には、イエス様が来たのは世を裁くためではなく救うためだとあり、続けて、光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。しかし、真理を行う者は光の方に来る。とあります。「真理とは何か」本日のピラトの問いの答えがここにあるのです。