今週の説教要旨(2020. 4. 26)

4月26日花

説教題「 破れぬ網 」
ヨハネによる福音書 21章1~14節
 今日の聖書は幾つもの驚くべきことに気づかされる。まず私たちが出会うイエス様はいつだって私たちのために死に渡され復活された主イエスなのである。私たちが呼びかけ呼びかけられるイエス様とは復活の主である。そして復活の主は必ず私たちの日常生活の中に現れる。この私の生活のさなかにいらっしゃるのだ。
 次に、聖書は実に全巻を通して挫折した人たちの書物だ。登場人物は皆挫折した人ばかりだ。しかし挫折して元気になった人の話だ。しかも根源的に元気になった。イエス様と出会って、その人のために死んで復活したイエス様によって元気をいただいて、その挫折した人自身復活した、そういう人たちの物語だ。物語というと不謹慎かもしれない。だが私たち自身、同じようにして元気になって生きていく物語をつづり続けていきたい。これをクリスチャンの証しと言い、福音の宣教という。今日の交読詩編145編をここで繰り返し読んでみてほしい。膝を打つはずだ。
 聖書は今日の世界中のキリスト教会への教えでもある。復活の主イエスは、挫折して後ろ向きになっている教会のただなかに、主なる神として繰り返しお現われになった。代々の弟子たちが主を忘れ、暗闇に漕ぎ出して不漁であっても、困っている時もどんな時も、夜明けの岸辺に立って、繰り返し教え、諭し、愛し、招き、祝福し、主が用意された食事に共にいて弟子たちは主から受けて食べ感謝して喜び養われた。そこで教会は、主なる神共にあり、人々と共に生き、共に祈り、教え、諭し、祝福し、伝道をし、聖餐をなし、感謝し、喜び、養われて、出ていき、集まるのである。
 最後に復活の主…三度目とある。何度も、真実という意味だ。三日目と同じだ。主の死ののちの三日目のことだ。すなわち、何度挫折しても窮地にあっても必ず主と出会う。何度でも、私たちも復活し、甦り、元気になり、立ち上がらされる。
 終わりに、網にかかったのは弟子たちの収穫ではない。網にかかったのは私たち自身だ。主の恵みの網にかかって皆、救われて、生かされる。祝福の破れぬ網だ。