今週の説教要旨(2020. 5. 3)

5月3日花

説教題「 わたしに従え 」
ヨハネによる福音書 21章15節~19節
 「わたしに従え」、なにをこの高飛車な、とも受け止められる言葉だが、相手が誰なのか、受け取る者と相手との関係によって意味が違うと思う。人によっては「私の言うとおりにしろ」と取るか「ついておいで」と取るかその響きと意味はその間柄によって、それぞれでまったく違うのであろう。この言葉は私たちにとって誰が誰に言っているのだろうか。このわたしに対してどういう方が言っているのだろうか。そこが勝負だ。その答えによって生き方が違う。命のゆくえが違ってくる。元来、聖書の御言葉は自分に語られている。このわたしの命のために、わたしに対して語られていると受け止めて読むものだ。そうでなくては理解できない。そこに聖霊が降る。祝福がある。例えば他人を理解するとは、その人がどういう人なのか理解することであって、そこから、その人がどういう意味でどういうつもりでそう言っているのかわかって来て、その人との交わりとなる。生きている神がこの私を生かすために私に語っていらっしゃる、それが理解できる、とはそういうことだ。祈りがいる。通じ合うとは、霊的なものだ。
 さて、シモン・ペトロに主イエスが言われた「わたしに従いなさい」、これは本当に神の憐れみが湛えられている。招詞のヨハネ10章で羊飼いが羊に声をかけて招き、導き養い、生かし救う。そういう愛の言葉だ。果たして羊飼いの羊は声を聞き分ける。だがすぐにではないし、紆余曲折や決定的な挫折がある。けれども必ず聞き分けて、立ち戻り、緑の牧場、憩いのみぎわに安らぐところに導かれる。過去、現在、将来にわたる御声。確かな、招きであり、教えであり、守り。真実な約束であり、保証であり祝福である。かつて主に「従って来い」と招かれ愛され、お前はペトロ(岩)だ、と信頼されたシモンがマタイ26:31~35の如く主イエスを否む。今は復活の主に示されてもガリラヤ湖畔でもとの暮らしの体たらく。だが主の恵みと慈しみは彼を追った。やがて、ローマ帝国の迫害による挫折の時も主は現れ、彼は踵を返し、教会のリーダーとして殉教を遂げたという。これは、あなたへの招きの永遠のみ声だ。