宣教への招き(2020. 7. 5)

7月5日花②

宣教への招き
説教題「 メイク・ピース 」
エフェソの信徒への手紙 2章 11節~22節
 今日の聖書の14節から16節には人類にとってまことに大切なことが書かれています。つまり、平和について告げています。
わたしたちは平和を愛しています。平和が好きですか嫌いですか、と聞かれたら答えはほとんどの人が平和のほうが好ましい、好きだと肯定的に答えると思います。しかしなかなか現実はそうではない、平和が好きだと答えながらも、自分は平和を望んでいても相手とはうまくいかないことが多い。他人との関係においてはすべてが平和にいくとは限らない、むしろたいへんである。という思いがすぐに湧いてきます。そう考えると平和というのは「相手との関係」ということが分かります。
大きく目を転じて、人類も平和を望みながらそうはいかない。歴史を振り返って、現代のこと今現在のことを考えてみても、やはり平和ではないと思ってしまう。平和がそういう「状態」なのか、もしかすると「ある」とか「ない」という「存在」なのか、考え方は色々だと思いますが、答えはいずれも否定的な方に傾いてしまうと思うのです。あげくの果てに平和のことを考えるだけでも皮肉なことに人生が嫌になり、世界のこと、平和のこと、他人との関係のことなど考えるのも嫌になってしまう人も出てきそうです。人間とは平和について思い巡らすと、実は肯定的な気持ちではいられなくなるもの? ついには平和などない、このままでいいのだ、平和もなにもどうでもよいと思ってしまいます。でも、他人との関係はないと人は生きていけません。やはり平和に生きるためにどうするのかということを始終突きつけられているのが私たち人間であり人類なのです。これは考えないでは生きていけない。
わたしたちの結論はまだ出ていません。平和とは何か。それはあるのかないのか。その状態は自然になるのか、作れるのか。相手との平和な関係とはどういうものか。いや切実な問いとしてこの私はどう生きたらいいのか。その答えが今日の聖書で告げられています。その告げられていること、それはまさに平和の福音(17節)です。