宣教への招き(2020.12. 20)

12月18日花②

宣教への招き
説教題「 神 われらと共にいます 」 
ルカによる福音書 2章 1節~7節
 アドベント第4主日、ベツレヘムのキャンドルを灯す。その意味は愛という。
しかし今日の聖書のどこに愛があるのかと訝る。4世紀初頭のクリスマス典礼の答唱文に「私たちは天のしるしを見ました。輝く星というしるしを。」「野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちは恐れ、ひざまずいて、歌った、父に栄光あれ。ハレルヤ。御子と聖霊に栄光あれ。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。」とある(O.クルマン「クリスマスの起源」)。少なくともそのような顕現の光に満ちた神々しい様子はない。ただ、その、上からの光のもとで起こった出来事だとは察することはできる。おや?そう思って読んでいると、あの飼い葉桶のところから、ほのかな、かすかな、聖い光が輝きいで、あたりからだんだんにベツレヘム中をじわじわと照らしていく錯覚にとらわれてくる。うむ?錯覚ではない。御子の誕生だ。アーメン、ハレルヤ!インマヌエル!では、やはり、神の愛が今日の聖書に現れているのだな!
皇帝アウグストゥスの時代、キリニウスがシリア総督の時の住民登録が行われたのは紀元前6世紀だそうである。初代皇帝アウグストゥスから始まったローマ帝国の繁栄は「ローマの平和」と呼ばれ、その後に登場する数々の帝国の平和のモデルとなった。それは強大な軍事力、圧倒的質と量の武器、超大の力によるに平和体制であった。この時の住民調査もその準備だ。帝国領土全体が軍事体制に組み入れられ、今日の聖書はそこへとこの世がひた走る光景なのだ。ベツレヘム、「パンの家」という意味のある、のどかで、オリーブと小麦の豊かな収穫で知られた牧歌的な、ダビデの生まれたこの町も、あえなくこの世の勢力に飲み込まれてしまうのか。
しかし、その片隅に、この世の片隅に一番低い「しもべのかたち」をとって御子は生まれた(フィリピ2:6~11)。神の身分でありながら、人間の姿で現れ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順だった。誕生の時も世には彼の「場所」はなかったが、さあ、彼の場所はどこだ。救い主の誕生をお迎えする場所はどこだ。

クリスマスおめでとうございます。
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