宣教への招き(2021.03.21)

3月20日花

宣教への招き
宣教題「 仕える王 」 
マタイによる福音書20章20節~28節

 有り難い親ごころ、されど親心、わからないでもないが、イエス様にお願いした今日の女性の心は神の御心からかけ離れているだろう。とはいえそれは腹を立てた「ほかの弟子たち」も同じだった。主イエスは偉い人が民に対して権力を振るう「異邦人の王」と同じではいけないと諭している。わたしは「仕える王」、一番低い王、あなたがたが生きるために命を捧げるあなたがたの僕なのだ。同じようにしなさい、と。
彼らの望みは人間の欲に根差して深い。欲深さ、人間世界、一般社会に信じられている人間の序列に囚われている。人に上下はないと言い放つ人にさえ根深い。これを聖書では「肉の欲」といい、罪と言う。人は罪を持つのではない。人は罪びとなのだ。善行を行う中にも、愛の行為を行う中にもこの罪は潜む。潜むどころか、これが動機となり、目的となり虜となる。自分が真に望む善を自分はどうしてもできない。
人は神に仕えようとして罪に仕えてしまう。パウロはこの矛盾に気がついた。「神の僕」になりたいのに「罪の奴隷」ではないか。この体は呪われている。「罪の法則」に支配されている。罪の報酬は死だ。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが救ってくださるでしょうか」(ローマ7:24)と悩んだ。死刑囚、逃れられない牢獄の囚人。わたしたちすべての人間は例外ではない。
しかし主の御業はほむべきかな。誰もが救われないと考えていたが、いやただ一人イエス・キリストによって誰もが救われたのだ。イエス・キリストが十字架で死ぬことによって。十字架は罪に死んで神に生きる出来事です。わたしたちもキリストとともに十字架で死んだのならば、キリストとともに、神の命に生きるのです(ローマ6:11)。神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命です。
十字架は、いと高き神の御子が一番低くなって人間に仕えた出来事です。神の序列です。神の真実と自由と慈愛です。ただ唯一、人間の序列をひっくり返す出来事です。主に従う者は人間の序列から解放されて生きるように招かれています。イエスとともに生きて踊り(讃美歌21-290)、どんどこどんどこ歩いていきましょう♪

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こどものための小説教
https://youtu.be/NKukxaIYRgQ
宣教「仕える王」
https://youtu.be/J-dNaS20dY8