宣教への招き(2021.06.20)

6月19日花

宣教への招き
宣教題「 生涯のささげもの 」 
コリントの信徒への手紙Ⅱ8章1節~15節
マタイによる福音書5章21節~26節)

「生涯の捧げもの」という題で、教会でする献金や募金のことを一緒に学んでみたいと考えていた。だが、示された聖書を読んでいて気がついた。逆に、自分たちがすることでなく、自分たちがいただいている神の恵みのほうに目を向けるのだ。
詩編交読の詩編14:2にはこうあった。「主は天から人の子らを見渡し、探される。 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」「目覚めた人」とある。これは、先週、ダニエル書12:3(旧約1401頁)で「目覚めた人々は大空の光のように輝き」と聞いたばかりの「目覚めた人」と同じだ。私たち信仰者は世にあって輝く光、「目覚めた人」なのだ。「多くの者の救いとなる人々」なのだ。神様は私たちに、更に、「目覚めてほしい」のだな。そこで、今日の14節、15節に焦点が当たる。
14節「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」。そうか、募金というのは、お互い様なものだ。今ゆとりがある方(ほう)が、ない方(ほう)の欠乏を補う。たしかに、いつか逆の時もあるので釣り合いがとれている。これはお互いのやり取り。「互いに愛し合いなさい」だな。物量の平等ということだけではない。相手が小さなことと思っていてもこちらは大きな恩を感じることもある。逆の場合もある。相手から霊的なものを受けて感謝してこちらは物質を贈ることもある。そしてお互いに霊肉共に豊かにされる。それで釣り合いがとれる。なるほど、けちではだめだな。信仰から来る自由で寛大な心が求められる。けちな部分がある私たちだな。心の不平不満が神様に聞こえているだろうな…
15節「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(旧約120頁 出エジプト16:18)目覚めよ。これは神の恵みマナのこと。神が朝毎すべての者に与える不思議な恵みの食物。多く集めたらわずかしか集めなかった人に与えなさい、そうすれば釣り合いがとれるということだろうか。よし、更に出エジプト記16章を読んでみよう。目覚めよう。

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こどものための小説教
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宣教「生涯のささげもの」
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