宣教への招き(2022.2.27)

2月26日花

本日の宣教への招き
イエス様とともに一日を過ごし夕方になった。弟子たちは清々しい気持ちだったろうか。「向こう岸に渡ろう」とのイエスの掛け声は荒涼とした雰囲気さえ感じさせる。案の定、舟数艘で逆波を乗り越えながら沖に漕ぎ出した弟子たちに嵐が襲う。竜巻のような風が激しく吹きつけ大波が舟に覆いかぶさり、湖水で舟の中は溢れた。船をもはや制御できない。これは危ない、溺れる、いや死んでしまう(原文では滅びてしまう)と察知した弟子たちの目の先には師であるイエスが素知らぬふりで眠っている。先生、助けて下さらないのですか! 先生に言われたので、よっしゃあ!とむしろ先生を連れて行ったのに、・・・どうも弟子たちは自分ごととして沖に漕ぎ出したのではないことが暴露されてしまう。彼らは自然の脅威にさらされて、不満と不安で一杯になる。自分たちの生き方、あり方に確たるものがないのでイエス様に不満をぶつけている。イエスはやおら起き上がり、風をりつけ、湖に「黙れ、静まれ!」すると嵐も波も静まった。大きな静けさがあたりを覆った!・・・そこでイエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」この圧倒感!・・・なぜ怯えているのだ、まだ信頼が欠如しているのか。早く信頼を確かにしなさい。   
信仰=信頼の反対は臆病、気弱なのだ。向こう岸というのは反対側と言う意味でもある。そこは安全ではない。信仰が試される。自分が試される。「向こう岸に渡ろう」というのは、もしかしたら、イエス様はそこへと弟子たちをいざなったのだ。
「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが言っている。私たちは、イエス様が神の子だというのはこういうことだ、と知っているつもりだ。だが、弟子たちは今や、嵐よりもイエス様を恐れている。彼らの陥った恐れは逃げ出したくなるほどの恐れである。そこでこの方はどなただろう、と叫んだのである。私たちはこれほどの恐れを持っているだろうか。この生ける神をこそ私たちは、そして使徒信条は告白している。この方でなければどうして人間を、罪と死の床から贖い、引き上げ、救い出し、導き、生かすことができようか。

今週のこどものための小説教と宣教をYouTubeに公開しています。
こどものための小説教
https://youtu.be/oa5ECgB-I-I
宣教「向こう岸に渡ろう」
https://youtu.be/Q9FuY_C40sc