宣教への招き(2022.3.27)

3月26日花①

宣教への招き
讃美歌21-300の三節「十字架のかげに我は立ちて み顔のひかりを絶えず求めん  
この世のものみな消ゆるときも くすしく輝くその光を」参照聖句Ⅱコリ4:6とある。ここから今日のメッセージタイトルとした。それぞれコリントの信徒への手紙二4:1~6を読み味わってほしい。自分の暗闇の心の中にイエス様の光輝く顔を見る。世と世にある私たちは暗闇の中を行くように思えるかもしれないけれども、さあ、心の目でしっかりと神の栄光を悟らせてくださる主のみ顔を見よう。そして神の似姿である栄光に輝くキリストの福音の光のなかを歩んでゆこう。
今日の聖書はペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちがイエス様に連れられて高い山に登り、一瞬、神の国もかくや…と思われるインマヌエルの恍惚を味わったのも束の間、夢から覚めるかように「弟子たちは辺りを見回したが、もはやだれも見えず」ただイエス様だけが見えた。共にいた。(9:8)そしてただちに下山し、これまでと同様の日常に舞い戻る。ほかの弟子たちが大勢の群衆に囲まれており、飼う者のいない羊たちのような哀れな人間仲間の世界で、いつものように歩み、生き、暗闇の中を、労苦を惜しまず仕えていくイエスについていく弟子たちである。これは私たちの生活リズムと同じで、主の山の変容の出来事は主日礼拝。そこで私たちはイエス・キリストの光輝くみ顔を仰ぎ、神の栄光の内に安らぎ、また出ていく。その日常の中に、見えないかもしれないが心の目で主イエスのみ顔を求めて生きていこう。人の思いと神の思いは違う。必ず主は共におられるのであるから。あの主の変容に立ち会った者は、その者もまた登山する以前とは変えられているのだから。
8:38~9:1も私たち一人一人への主イエス様のみ言葉として深く味わいたい。「神に背いたこの時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときにその者を恥じる。はっきり言っておく。ここにいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは決して死なない者がいる。」メシアとは苦難のメシアである。われらが力と希望と命。

今週のこどものための小説教と宣教をYouTubeに公開しています。
こどものための小説教
https://youtu.be/hcDK2TfUl3o
宣教「主の顔を見よ」
https://youtu.be/R-tQT-E5h3A