宣教への招き(2022.4.10)

4月9日花
宣教への招き
ここはいつもあなたと来た場所、だがあなたはいつもと違う。いつもあなたは俺たちと少し離れて祈っておられた。だが今日のあなたは、ひどく恐れて悶えていた。あなたの悲しみの夜、俺たちは眠りこけていた。あなたの深い悲しみの夜に、私は眠りこけていた。エルサレム城外、ギドロンの谷を渡ってオリーブ山の西麓にゲツセマネの園がある。そこでキリストは祈った。最後の夜だった。死ぬばかりに悲しい、と弟子たちに吐露した。その悲しみは、これからのご自身の運命であり、誰にも、殊に弟子たちさえにも理解されないことであろうか。
これからキリストは弟子たちに裏切られユダヤ人神殿警備隊に逮捕され、大祭司の庭での最高法院で排斥され、ローマ総督ピラトのもとに引き回され、群衆に十字架を宣言され、罪人の一人とされ、すべての人間に石ころのように見捨てられ、いたぶられ、唾かけれ鞭打たれ、十字架を背負い、ゴルゴタの丘で釘打たれ、恥と呪いを受け、父なる神に見捨てられ、絶望と疲労と苦痛の果てに、絶命する。
ゲッセマネの園でキリストは三度祈った。「父よ、できることならこの苦しみの時を、この杯をわたしから取り除けてください。あなたはなんでもおできになります。でも私の願いでなく、あなたの御心が行われますように。」三度、弟子たちとの間を行き来した。同じ言葉で祈った。これはイエスご自身の迷いなのか、お心が決まるまで闘っているのか。そうだ、祈りの闘いだ。血の汗と涙を流した。
だが、俺たちは眠りこけていた。きっとイエス様は「俺たちは目を覚ましあなたと一緒にいて祈っています。」と言ってほしかったのだ。
しかし主イエスは「もうこれでいい」と言われた。「人の子は罪人たちの手に引き渡される。」と仰った。「立て、さあ行こう」と仰った。もういい。わたしたちも自分の十字架を背負って、主と共に、さあ、行こう。
今日は、棕梠の主日。ろばに乗った王を主として、わたしたちもお迎えする主日。ホサナ、万歳、主よ、救って下さい、の歓呼で迎えられる主。金曜日に十字架で絶命される王を、わたしたちはわが主と呼ぶ。主よ、わたしたちを救いたまえ、と祈る。呼ぼう、祈ろう。おゆるし下さい。目覚めて共におりますとイエス様に言おう。

今週のこどものための小説教と宣教をYouTubeに公開しています。
こどものための小説教
https://youtu.be/LKnYo3AFIUo
宣教「棕梠の主日」
https://youtu.be/YAfxNQRN9eg