宣教への招き(2022.5.1)

4月30日花

宣教への招き
羊の囲いの中は神の国であり天国、救いの国であり、羊が豊かに守られるところであろう。そこへは門を通ってしか入れない。イエスが門である。羊の門である。イエスの羊は門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。また、これまで羊の命を狙って無理やり押し入ろうとする者達があった。彼らは盗人であり強盗である。しかし羊は彼らの声を知らず彼らについて行かなかった。イエスは来て、門となり、羊は彼を通して出入りして、牧草と水で命を豊かに受けるのである。
復活の主イエスが「わたしは良い羊飼いである。」と呼ぶ。詩編23編、主がわが牧者なり。そうイエス様はわが牧者、わが羊飼い、良き羊飼い、本当の羊飼い。悪い羊飼いは狼が来ると逃げてしまう。羊は滅ぼされても自分のほうが大事だ。しかし良い羊飼いは羊のために命を捨てるという。身代わりになって羊を救うという。なぜだろう。それはこの良い羊飼いが羊の持ち主であるからだ。羊はご自分のものなのだ。そもそも、われらは主のものなのである。そうだったのか。そうだ。
羊も良い羊飼いである主の声を聞き分けて、この羊飼いと一緒にいて安心して喜び、命を受け、豊かに養われる。羊飼いに完全に守られて導かれる。良い羊飼いはただの雇われ飼い主でなくて、われら羊は彼のものだったのだ、アーメン。
一方、牧者は父から託された仕事をする羊の持ち主であり飼い主である。ほんとうは父が羊の持ち主であるところ。父と子はひとつ心なので子が羊の持ち主として羊の命の責任を持ち良い羊飼いとして牧羊する。また、囲いの外にもご自分の羊がいて今日も囲いの中へと導かなければならない。彼の羊たちはその声を聞き分ける。ひとつ心になるためである。こうして一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。
「わたしは命を、再び受けるために捨てる」とある。羊のためにイエスは十字架で命を捨てた。良い羊飼いは羊のために喜んで自分から命を捨てる。そして羊を救い贖いだす。羊は命を受けて生きる。十字架の主は復活の主である。今日も命を捨てるが、また父から受ける。誰も父の愛から主イエスの命を奪い取ることはできない。そしてみな一つの命に生きる。・・・命を捨てるとは、愛するの謂いである。

今週のこどものための小説教と宣教をYouTubeに公開しています。
こどものための小説教
https://youtu.be/e0-kCzAr_F4
宣教「飼い主わが主よ」
https://youtu.be/HNCqD849ECw