宣教への招き(2022.6.26)

6月25日花③
宣教への招き
今日のイエス様のお言葉は悪霊を追い出すことが一番の目的ではないことをはっきりさせておられる。イエス・キリストは神の国の到来という福音をもって来られた。「わたしは宣教する、そのために来た。」悪霊追放は、そこそこに、次の町、ほかの村へ行き、宣教し、悪霊を追い出した。宣教第一。悪霊を追い出すのは、宣教によって神の国がそこに来たことのしるし、いうならば単にその目に見えるしるしに過ぎない。大切なのは神の国の宣教である。そこに救いがあり自由と命がある。
ガリラヤの向こう岸ゲラサでも悪霊にとりつかれた人が救われた。イエスが悪霊を追い出したせいで町の人々と産業界は困った。しかし神のみこころは、それ以上に一人の人の救いだった。皆は喜ばない。しかしその人は生き返ったようになり、その家やその地方における神の国の宣教者になった。悪霊は人を非人間化する目に見えない権力だ。だからイエスが来て、救われたい思いと構わないでほしい思いに引き裂かれている。この人も、町の人々も同様だ。しかしそこに確かにイエスは来て神の国の到来を告げ知らせたのである。この仕事を使徒言行録では教会がする。
使徒言行録16章でパウロたちがフィリピで投獄された。イエスの名によって悪霊を追い出して一人の人を救い出したせいだった。悪霊追放によってその人の主人たちや町の産業界は大いに打撃を受けてパウロたちを逮捕した。さらには獄中で賛美して祈る彼らと神は共におられ、今度は看守が主イエスを信じて救われたのである。
イエス様もパウロたちも神ともにあって悪霊と戦う。しかし悪霊を根絶やしにはされなかった。神がおられその勝利は当然確実だからである。一人の人を救い回復するために悪霊を追い払うまでである。教会も宣教するところに悪霊と戦う。悪霊が神を知りながら挑戦してくるからだ。人を苦しめ迷わせ非人間化するからだ。
今日のテーマは「戦う教会」。エフェソ6:10以下を見てほしい。わたしたち教会の戦いは、人間を相手にするものではなく悪の諸霊との戦いだ。敵をやっつけるのではなく追い払い、神の武具を身に着け自らを守り、神の言葉を剣として、祈り、すべての聖なる者たちのために祈り続け、神の言葉を語り続けて神を待つのである。

こどものための小説教
https://youtu.be/-eRlC3ZD1k4
宣教「戦う教会~イエスさま、聖霊、神さまと共に」
https://youtu.be/qYSJppA0j4o