宣教への招き(2022.9.4)

9月3日花⑤

宣教への招き  
テレビで有名人の告別式などが映ると、故人に呼びかけて「天国でまた一献傾けましょう、待っていてください」などとやっているのを見かけることがある。日本人ももしかしたらようやく天国というのが身近になってきたというか、死んだら必ず天国に行くものだと自然に感じられるようになってきたのではないかと思う。わたしはこのことは日本人の感覚がキリスト教や聖書にようやく近づいてきたかと内心喜ばしく思っている。私が天国を意識したのは幼少時、母親やその祖父母から悪いことをしたら地獄に落ちる、良い子は天国に行けるなどと言って地獄絵のようなものを見せてもらったような記憶がある。その裁判は閻魔様がするのだと。なかなかの狭き門である。次に物心ついた頃に父かたの祖母がなくなった。こちらはクリスチャンで、当時時間をかけて火葬した煙突の煙を見て、ああやって天国に人は(人の魂は)帰るのか、天国に祖母は行ったのだな、と思った。前後して、「帰ってきた酔っ払い」という流行歌で愉快な日本の死生観を歌う大ヒットがあり、複雑な思いとともに意味もわからず真似をして楽しく遊んでいたのも思い出だ。
さて、天国に行くものだと考えているならば、それは実に幸いなことなのであるが、そうであればこそ、「もっと、まじめにやれ~」とどこからか聞こえてこないだろうか。いや冗談はさておいて、信仰をもってほしい。もっと神様を信じて誠実に生きてほしいという思い切なるものがある。いや、もっと聖書を読んでほしい。イエス・キリストを知ってほしい、イエス様を、十字架の愛と復活の希望を信じてほしい。もっと教会に来てほしい。そう言ってしまえばよいのだろうか。そのように感じていると、本日の御言葉は福音書のみではなく詩編40編にも示されていた。
神は天国を万人に備えたもうほどの憐れみと慈しみをイエス・キリストの十字架による贖いにおいて顕された。福音は主イエスの十字架の血潮に示される救いの御業である。あなたの天国の備えのためにどれだけの愛が払われているのか、いかに反対勢力があろうとも、倦まずたゆまず語り伝えていくのが教会の務め、働きであろう。今日もわたしたちに示された福音の物語を伝えて生きたいものである。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/7YgGR-JY1tw
宣教「 教会の働き 」
https://youtu.be/z0RIYivVJYo