宣教への招き(2022.10.2)

10月1日花③

宣教への招き  
ナルドの香油の出来事の後、ついに十二弟子の一人であるイスカリオテのユダは祭司長たちのところへ行き主イエスを引き渡す約束をした。しかし主イエスはそのユダをも引き連れて都エルサレムに入り、弟子たちに黙って用意していた家の二階広間で、主イエスは地上での最後の食事をしたのである。いわゆる最後の晩餐である。最後の晩餐は過越しの食事であった。
過越しの食事は主の過越(Pass Over)に由来する(出エジプト記12章)。イスラエルの民が主なる神によって救い出された過越しの夜、神の使い(滅ぼす者)がエジプト人の家を襲ったが、神はご自身の民イスラエルの民の家は「過ぎ越し」たのであった。その日イスラエル共同体は主の言葉に従って夕方に犠牲の小羊をほふり、その血をそれぞれの家の入口に塗って目印とし、夜にはその肉を焼き種入れぬパンと共に食した。腰に帯を締め、靴を履き、杖を手にして急いで食べ、後片付けを急いでして出エジプトの朝は贖われた朝、約束の地への旅の始まりの朝である。
こうして主のものであるイスラエルの民は救われた。以来、出エジプトを記念する過越の祭に際して過越しの食事が行われた。主の過越しはイスラエルの神信仰とイスラエル共同体=神の民誕生の原点である。イエス・キリスト最後の食事もこの食事であり、主の過越しの意義は、キリスト教会の聖餐に引き継がれた。
初代教会はキリスト自身を犠牲の小羊とみなし、主のものである民の死から生命への過越しを祝った。主なる神が自らを過ぎ越されたことが出自とアイデンティティというのがイスラエルの信仰であるならば、キリスト者と教会の出自とアイデンティティはわが身をイエス・キリストの十字架の贖いの血によって神が過越された救いの事実なのである。旧約聖書によれば贖いの犠牲の小羊の血は神と人との和解の契約の血であり、主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。またイエスご自身が自身を命のパン、わが肉を食せ(ヨハネ6章)と言い放つのである。食し飲め。聖餐では主の死と復活により始まった救いを記念して神の国到来の時に新たに飲み食すその日を望み見る。生ける主がすべての者を招くのである。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/FvSQIVsmeaY
宣教「 世のための命イエス・キリスト 」
https://youtu.be/Iy-RSkLYOhA