宣教への招き(2022.10.9)

10月8日花②

宣教への招き  
今日の聖書の記事は最後の晩餐と主イエスの捕縛との間にある深い夜の大変緊迫した状況にあります。最後の晩餐は主の過越しの食事でした。過越しの食事は主なる神の怒りを過ぎ越された夜を想起して人々が感謝して記念し、神の国での祝宴を望み見る親しい食事で、食卓を囲んだメンバーは詩編の賛歌を歌って終えるのです。
しかしその親しいメンバー全員の離反がそのテーブルスターである主イエスから告げられるのが次の場面です。引用はゼカリヤ書13:7からと言われています。主イエスの言葉をペトロはどんなに力んで否定しても理解が及ばずにもどかしいです。イエス様への申し訳なさとともに、神様のご計画や思いを把握できない人間の思いと限界、神と人との違いを、痛みを持って思わされます。それにしても私たちは愛する人と一緒に死ぬ、ということをどれほど真剣に考えたことがあるでしょうか。主イエスの復活後の約束の言葉は、かみ合わないやり取りの中で消え入りそうな印象がありますが、決して消えない光を灯し私たちを輝かし導いています。
ゲツセマネはヘブライ語でオリーブの「油しぼり」で、その名のついた園がオリーブ山のエルサレムに面した山麓にあり主イエスたちはそこでよく集まって祈ったのだそうです。この時主イエスは他の弟子たちをその場に座らせ、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて奥まで行きます。すると突然のように三人の前で深い苦悩を露わにします。しかし主イエスの深い悲しみは三度の祈りの戦いの中で、神さまの意志への服従に変わっていきました。一方、三人の弟子たちは、そばにいて目を覚ましているように求められたのですが三度も眠りに落ちてしまいます。この対比は何を意味するのでしょうか、いかんともしがたいものがあります。
「苦しみの時」「この杯」とあります。時とは神の定められた時です。いまや神の救いが人の歴史に突き刺さるように、なるというのです。それは御子イエスが十字架上で私たちのために肉を裂き血を流すことで遂げられる神の過越しの時です。神から差し出されるこの苦杯を主イエスは飲み干そうというのです。勿論神には杯を取り除けることもできるでしょう。しかし主は御心のままにと意志したのでした。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/gSVZAgeQW8c
宣教「 苦しみのキリスト 」
https://youtu.be/rFqqhY0tyTE