宣教への招き(2022.11.6)

11月5日花②

宣教への招き
神の民イスラエルの三大族長であるアブラハム、イサク、ヤコブの物語(12~36章)。その中で今日の聖書は、イサクの物語でありながら、父アブラハム母サラの物語であるようです。アブラハムが100歳、妻サラが90歳の時にようやく産まれた約束の子イサク、その名の意味は「彼は笑う」(21章)。いよいよそのイサク誕生の予告がなされた、というのが今日の聖書です。
ここを読んでわたしたちはサラの笑いについて、また笑いというものについて思い巡らすものですが、14節に「主に不可能なことがあろうか」という言葉があって、いくつかの新約聖書の御言葉が思い当たり、その先に、ある焦点を結びます。
バプテスマのヨハネが洗礼を受けに来た人々にこんなふうに言っています。「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。続いてマタイによる福音書では金持ちの青年とのやりとりの後でイエス様が弟子たちに言いました。「はっきり言っておくが、金持ちが天の国に入るのは難しい。」弟子たちはこれを聞いて「それでは誰が救われるのだろう」。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にはできることではないが、神には何でもできる」。
ルカによる福音書を開くと天使ガブリエルがナザレの町に遣わされてダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのもとに来て告げます。「おめでとう、マリア、神にできないことは何一つない。」(マタイ3:9、19:26、ルカ1:37)
イサクの物語の中に「主、備えたもう」という言葉があります。思うに私たち人間は主の恵みの約束をいただいておりながら、いぶかり、笑う者です。けれども主なる神は、そんな私たち人間に対してご自分の恵みの約束をどんなことがあっても貫徹されるのです。わたしたちは神を笑う者です。どんなに打ち消してもその笑いを主は気づいておられます。わたしたちは、やがて最後には、本当の意味で神を笑う者になりたいものです。いいえ、きっと必ず神さまがそうしてくださるのです。そのようにして必ず、最後にはきっと、わたしたちは神を笑いましょう。
 
こどもたちへの小説教(アブラハム)
https://youtu.be/FesSF62ex0Q
宣教「 神を笑う 」
https://youtu.be/gF3P2-g-SzM