宣教への招き(2022.11.13)

11月12日花②
宣教への招き
本日の聖書は先週永眠者記念の日を共に過ごした私たちにとってたいへん慰めと励まし、いや希望に満ちた御言葉である。マタイ22章、マルコ12章、ルカ20章の三福音書にとどめられた記事で、ほとんど同じであるがそれぞれ若干違っているので味わってほしい。そこには生前のイエスの言葉の生々しさ、生き生きした声色その響きさえ感じられる。そしてその熱量も。主イエスに出会う人々の人生は、昨日までとまったく変わってしまう。イエスの「従ってきなさい」とのみ声は、その人の人生を全く変えてしまう。今日の御言葉はそのような主イエスの招きである。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。という主イエスの言葉に私はほとんど絶句、目からうろこで、何度聞いても感動してしまう。神様を呼ぶものは皆生きているのだ。神に生きている者、つまり神に在って生きている者、神に相対(あいたい)し、神の御前にある者は皆生きている。神が命の神であるからだ。とこしえに生きていらっしゃる方だからだ。その御前に抱かれている者たちは皆生きている。神に呼ばわる者も、呼ばわっているからこそ生き、生かされているからこそ呼ばわっている、神に呼ばわり生きている。皆、生ける神に生かされて生きている。私たちの愛するあの方々は本当に御前に今、生きているのだ。
そして、マルコ12:27には続けて、あなたがたは大変な思い違いをしている。とある。あなたがたは聖書も神の力も知らないからだ。と言われればしゅんとなる。そうか来世はそういうものなのか、次の世に復活する時はそうなるのか、その世界のことは、すべて神なる主におまかせする他ない。それまでだ、いや、それでよい。その時には神がすべてのすべてとなる。(Ⅰコリント15:28)
モーセの「柴」の個所は出エジプト記3:1以下だ。6節に「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とある。これはわたしは先祖代々の神というのではない。皆、ずうっと後に復活するがそれまで死んでいるのではない。ずうっと死んだように眠っているのでもない。今、それぞれが神にあって生きて喜んでその御前にいて仕えて神と共に神を笑っているというのだ。
 
こどもたちへの小説教(イエスさまおねがい)
https://youtu.be/IG1IugOmBFw
宣教 「復活問答」
https://youtu.be/0QCevCkK9m8