宣教への招き(2022.11.27)

11月26日花

宣教への招き
招きの言には2カ所の預言の言葉を掲げさせていただいた。後半はご存じゼカリヤ書9章の冒頭で(旧約1489頁)、娘シオンよ、大いに踊れ、歓呼の声を上げよ。あなたの王が、高ぶることなく、ロバに乗って来る。というくだりである。続けて、主は戦車と軍馬を絶ち、戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ、とある。詩編24編では、今まさに来られる王は、栄光に輝く強く雄々しい戦う王、なので、むしろゼカリヤ書9章につなげたかった。このほうが、我々のイエス様のイメージであり、私どもが待つ平和の王にふさわしいのではないか。
アドベント(来臨)は二つの来臨の意味があると言われる。一つはその方の降誕であり、二つにはその方の再臨である。わたしどもはこの二つの時の間を希望して待ち望みつつ、忍耐して待つ。学びつつ待つ。なんとか初めの来臨の方にふさわしくなるように自分の歩みと自分たちの世界が変えられるように願いながら。励みつつ傷つき破れ、あきらめて絶望の淵に漂いながら何かをつかみ、起き上がれないけれどもしかし祈りつつ待つ。やがてこれも楽しみと悟りつつ、心を天に向けながら、静かに心を燃やし続けながら忍耐しながら、待つ。生きることは来臨を待つことか。
 今日の聖書のエレミヤ書を読むときに、見よ、その日、正義の若枝である彼は来て、主の約束を果たす、とある。裏を返せばつまりなんともはや地上の我々には「公平と正義」が実現できないということであるか、残念だ。しかし、彼が来れば、エルサレムも人の住む都として回復され「主は我らの救い」と呼ばれるというのである。当時、彼らの王は「主は正義」という意味を持つ王ゼデキアの世であった。そうではなく、やがて来る「主は救い」という王イェホシュアこそ公平と正義の、つまり平和の王だ、と聖書は言うのである。イェホシュアという名の呼び方こそ日本語で言う「イエス」、わたしたちの救い主イエス様の名前、イエスである。
 讃美歌230番は16世紀ペスト流行の中作られたそうである。この世を去った者たちにも「起きよ」と呼びかけている。いや、天地のもろともあげて「起きよ」と呼び掛けているのである。そうだ、彼が来る。心を上げ身を起して待とうではないか。

こどもたちへの小説教
https://youtu.be/-tfMc22SDpY 
宣教 「人の子が来る」
https://youtu.be/rMj7fcyGdkk