宣教への招き(2023.1.8)

1月7日花

宣教への招き 
 本日の聖書は「民衆はメシアを待ち望んでいて」と始まり、ヨルダン川で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を授けていたヨハネのことを、もしかしたらメシアではないかと皆が心の中で考えていたというのである。これに対してヨハネが言うには、私はメシアの前に来て、あなたがたに水で洗礼を授けているが、自分はメシアの靴紐を解く値打ちもない。私は彼の僕ほどの値打ちもない。それほどに後から来るメシアは優れた方だ、と切り出した。更に、私は水で洗礼を授けるが、彼は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。と言った。ヨハネはほかにも様々な勧めをして、民衆に福音つまり神様から来る喜びの知らせを告げ知らせていた。福音とは何だろうか。それは神からの救いが来ること。その方が人の子として来られることではなかろうか。ヨハネはメシアつまり救い主イエス・キリストが来られること、これこそ人間にとって最上の喜びの知らせだと告げたいのだ。さすが、それは母エリザベトの胎にいるときからそうだった。イエスは彼の喜びだった。これは人間すべてのものにとっておそらく同じであろう。人間存在にとって、最上の喜びの知らせとはあなたの救い主イエス・キリストが来られることなのである。
 21節、「民衆が皆ヨハネから洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、」と実に自然に読める。イエス様も民衆も皆洗礼を受けるのが当然のことのようにスーっと読めるのである。たしかにマタイによる福音書では、洗礼を受けるのは我々にとって正しいことだとイエスは言われた。これがすべて人間が洗礼を受けるべき根拠なのである。確かにわれわれ人間はみな罪の赦しを受けるほどに悔い改めるべき存在ではないだろうか。そうでないというならよほどの嘘つきである。洗礼の後祈っていると、天から聖霊がイエスに降ってきて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。思えば、キリストの名による洗礼を受けた者は皆この天の父なる神の愛の言葉を受け取っている。聖霊を付与されて新たな生き方を示す神の宣言であり、生まれ変わった存在に対する認証である。イエスによって開かれた、神と共に生きる輝かしく新しいスタートだ。

こどもたちへの小説教(主イェスとともに2 )
https://youtu.be/3IZUFWfV1_A
宣教 「イエス洗礼を受ける」
https://youtu.be/C3cze_I6Db0