宣教への招き(2023.1.15)

1月14日花

宣教への招き 
 最初の弟子たちがすべてを捨てイエスに従う決め手になった主イエスの御言葉。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)。今日のルカ5:10では「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
マルコ福音書では初対面のシモン・ペトロたちがすべてを捨ててイエスについて行った理由はなにも書かれていない。すべてを捨ててついて行かせる「なにか」がイエスにあったのだ、ということができるだけだ。でも私たちクリスチャンは、それだけでわかる気がする。私たち一人一人それぞれにそうした経験があるからだ。イエス・キリストとの「出会い」、というだけでは足りないあの経験。悔い改めの経験、救われた、恵みの経験、新生、生き返った、使命を受けて生きだす経験。それぞれにイエスと共に歩いていくようになった「なにか」を持っているのである。
一方、マルコには書かれていない「それ」が今日のルカ福音書に書かれている、ということができるであろう。もう4:15から記されているイエス様のなにか。じっくり読んでみれば、イエスが17節で「恐れることはない」と言われたように、まさにそれは私どもを恐れさせるものである。いまどきの言葉を使うと、この私も、イエス様「ちょっとコワすぎ!!」と思うのである。「わたしを離れてください。わたしは罪深い者なのです。」というシモンの本音(滅びの予感、信仰告白?)にそれは表れている。この方は人間の生も死もはるかに超えて掌握し現実も霊的世界も同時にその意志のままに支配される王、勝利者、すべてのものの主なのである。
だからマルコのイエスのように「わたしについて来なさい」は不必要だ。「あなたは人間をとる漁師になる」も直訳的に訳すとこうだ。「恐れるな、今からあなたは人間を生け捕りにするであろう」。その意味は「恐れることはない、今見たようにこれから、あなたは人間を生け捕りにするわたしの仕事を助けてくれ。」ここにはもう本当に従わざるを得ない権威がある。福音にはこのような強制力があるのだ。
「さあ、一緒に行こう」「イエスと共に歩こう」という言葉は甘く優しい誘いの言葉ではない。このような確かな恵みの言葉である。

こどもたちへの小説教(主イェスとともに3)
https://youtu.be/MQwg-b9n5QA
宣教 「一緒に行こう」
https://youtu.be/LAhYX3tTrB4